2017年08月03日

わいせつと表現規制(6)公序良俗という曖昧な概念を微分する

これまた久々の表現の自由と差別の記事です。また、去年の辺りからじっくり
考察してきた「性表現の問題」についての、取りあえずの最終章になります。

ここまでは、性表現を規制する根拠として、人権の観点性犯罪助長の観点から
考察してきました。ただ、これらの2つの論拠は実は最近出てきたものでして、
だいたいにおいて性表現は、今回展開する「公序良俗を害する」という理由で
規制されてきたわけです。

実は私は、先の2つの理由を掲げる人だって、その気持ちの根底にはこの考えが
あるのではないかと疑っています。実際は自分の性的羞恥心を刺激されるのがヤな
だけなのに、理論武装として上の理由を纏っているだけではないか。いやそれらの
理由だって大事ですけども、この「公序良俗」なる気持ちは意識されにくい分、
議論の俎上に載せにくく、しかも議論の気分を左右している可能性も否定できない。
ならば、この「公序良俗」なる概念について、きちんと考察しておくべきだろうと
当初は考えたのです。(ところが、考察を進めるうちに・・・なんですけども)

先ずは、過去の判例にあった文言から引用してみましょう。(といっても孫引きですが)
「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に
反するもの」
とあります。最後の「善良な性的道義」というのは意味不明ですが、最初の
2つは分かりますね。つまり、他人の性欲を刺激してはならない、ということ。そして
性的羞恥心を害するということ、この2点については考察できますね。(その上で、最後の
「性的道義」について考察を進めましょう)

先ず、他人の性欲を刺激してはならない、という点ですが、性欲というのはなかなか自分で
コントロールするのが難しいものですよね。なので、自分が望んでいないTPOで性欲が
刺激されることを良くないとしているわけです。これは分かりますね。仕事を真面目に
しなきゃならない時に性欲を刺激されても困りますもんね。

次の「性的な羞恥心」ですが、これは2つの意味があるのかなあと考えます。一つは先ほどの
性欲を刺激されることへの羞恥心。これは1つ目の意味と差別化する意味がないと思うので
実はもう一つの意味、他人の性を見ることへの羞恥心もあるでしょう。しかし、他人の性を
見ることが、どうして恥ずかしいのか、ということは、考察に値することです。

それについては、人は他人の性行為を見るのに嫌悪感を抱きがちですよね。性行為だけで
なく、性的な何某かを垣間見てしまうことにも嫌悪感を抱きがちです。それは、先のTPO
に関することとはレベルが異なるでしょう。だいたいいつ、どんな時もイヤですよね。

ただ、男の人なんかはAVを好んで見たりしますが、あれだって他人のSEXですよね。それに
ついては、おそらく男優さんを自分と重ね合わせることが出来ているからAVで興奮するの
でしょう。反対に、感情移入できなければAVは気持ち悪い代物になるのだろうなと考えます。
(寝取られフェチみたいな人もいるのですが)わい談なんかも、そこに入り込めるのなら
楽しいのでしょうが、でなければ不快に感じることでしょう。

つまり、性に関するものは、そこに入り込めれば快を得られるでしょうが、そうでなければ
不快になる。と考えると、性というのはその機能として内と外に分けてしまう宿命にある
と言えましょう。そこに入り込めない人を排除してしまう。だからこそ、関係ない人達に
嫌悪感を抱かせるのでしょう。

そう考えると「正しい性的道義」とか「性的羞恥心」とか仮面を被っていますが、要は他人の
性的な嗜好を知ることへの抵抗感が根っこにあるということなのでしょう。であるから、性は
あくまでもプライベートな領域に押しとどめておくことに社会はしているのだと考えられます。

私達は、他人の性に関しては寛容度が低いということは知っておいていいことでしょう。
それと共に、表現する側も、性的な要素を使う時には、性のそういった機能を承知し、その
リスクを考えた上で使うべきなのだと考えます。性というのは、特定の人と強く結びつける
機能を持つ反面、そうでない人を排除する面もあるということを。それを知った上で性的な
表現を行使すべきなのでしょう。

次は何を書くか。今勉強していることも色々あるので、そこからまた考えるつもりでいます。
posted by なんくい at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする