2014年09月24日

多様性(Diversity)について

今日から3日間、連続で表現の自由と差別の問題について記事を書きます。
この3つの記事は3部作的な色合いも持ちますが、それぞれ単独の記事としても
読んで頂けるように書きます。この記事を3日間連続で配信するのは、私自身の
テンションが薄れないうちに世に問いたいと思ったからです。(従って完全に
私の側の事情です)

先ず最初の記事は、その3つの記事の基本となる考え方、というよりこの連載の
結論とでも言うべき内容を書きます。それが、多様性というテーマです。

実は、表現規制の問題にしても差別の問題にしても、極論すれば「多様性」が
実現すれば解決できる、と言うことが出来ます。多様なものが共存し、人々が
多様なものへの寛容性を高めることが出来れば、必要以上に表現を規制しよう
という動きにもならないでしょうし、また差別もこの世から消えてしまうでしょう。

このことをもう少し詳しく解説しておきますね。先ずは差別の問題から。
私は差別というものを「社会的に固定化された悪感情(あるいはそれが制度化
された不平等となっているもの)」と捉えています。(詳しくはこの記事から)

世の中には様々な悪感情があることは事実ですし、それを封殺するのはむしろ
不自然です。ただ、そこに偏りがあることが問題なわけで、偏りを許容範囲に
押さえるためには、多様なものが共存する状況を作り出すしかありません。

性差別の問題(女性差別だけでなく、性的マイノリティーも含めた視野で考察
すべし)にしても、単独で発言のみを考察すべきでなく、背後にある社会的状況
を勘案して考えなければならないテーマだったりするわけです。それが、社会的
差別(=偏り)に加担する言動なのかどうか。そこが問われるわけですよ。

表現を発信する人の責任(それは、その人の力に応じて大きくなるものと考えます)
は、社会の持つ偏りが大きければ重くなる。偏りを増していくことへの罪が重く
なるわけです。反対から言えば、世の中に差別がなくなるほど表現の自由は増す。
ということになります。

非常に極論ですが、差別が全くない世の中でヘイトスピーチを行っても「不愉快な
ただの憎悪表現」ということになります。社会的な影響力も無視できるほどに
小さくなるでしょうし。今ヘイトスピーチが問題となっているのは、それだけ
状況が「やばい」んですよ。色んな意味で。
(もちろん差別がなくなっても、人を殺すとか云々は脅迫という別次元の問題が
 生じますし、憎悪表現にはそれに対する嫌悪感が生じるのは変わりません。
 ただ、それによる「差別の抑圧」が問題をさらに深刻化させているのです)

その他の表現規制の問題にしても、根っこが「多様な表現、特に自分と相容れない
ものを排除したい気持ち」にあるわけなんですよね。そのことは、この連載でも
表現の自由の根拠」「人権思想について」で語りました。

この多様性というのは「言うは易し行うは難し」であることは以前ここに書きました。
その困難な道を歩みたい、とも。この多様性へ心を開くということは、様々な
レベルで行っていきたいんですよ。こういう記事とかもその現れです。
(当然、好き嫌い自体はあっても全然構わないんですけどね)

今日はここまでです。明日、明後日は具体的な話(一見今日の話とは直接関係のない)
です。明日は世界の事例、明後日は日本の事例です。相互に関係のない話ですが、
今日の話を下敷きに読んで頂けると、また感じるところも異なると思います。
posted by なんくい at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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