2015年12月12日

上瀧浩子氏のTweetをめぐって

この記事を書くには勇気が要ります。でもそれではいけないと思うんです!

昨日に引き続き、バッシングに反論する記事を投下します。先ず集団で特定の個人に
対してこういう攻撃をするのは、言葉の集団リンチだと思うのです。教育現場でイジメが
なくならないことを嘆く人はたくさんいますが、大人の世界でこういうことがはびこって
いたら、そりゃあイジメもなくなるわけないよなあと思ってしまいます。(こういうの、
法律で処罰できないんですかね。それ相応のペナルティが課せられるべきだと考えますが。
それによって相手の人生がメチャメチャになったとしても、誰も責任取らないわけでしょ?)

それに今回の件に対しては、議論の過程で出た発言に対してのバッシングですから。まともな
反論をするならともかく(それにしても多くの人は議論のマナーがなってない!)言葉のリンチ
ですから。議論さえ出来なくなっちゃいますよね。そんなことで、いいんですか?

特に今回は差別に関する考察をしている際に起こったことで、立論の立て方自体少し似ている
ところがあるので、もし私自身にこういうことが起こったら・・・と考えると怖くて怖くて。
私は決して精神が強くないので、あのようなバッシングを受けたらうつ病になってしまう
かもです。(でもそうなっても誰も責任取ってくれないでしょ。特に加害者!)そう考えると
何も騒がないことが得策なのかも知れませんが、それは私の主義に反します。たとえ拙くても
自分の考えを世に問うことが、社会への貢献になると考えますので、書くことにします。

ただ上瀧さん自身かなり言葉足らずなところがあり(なので私はこういう問題については
なるべくつぶやきません。ブログに書くようにしています)それで誤解を受ける部分も
あったことでしょう。最近私は、特にこの問題については可能な限り分かりやすく説明
する必要性を強く感じていますので、その言葉足らずな部分を補うのがこの記事の前半の
目的とします。その上で、私自身は差別について別の意見を持っているので、そこに自分の
考察を加えるのが記事の後半の目的とします。

私が憤っている問題について、概要を知らない方もいると思うので、先ず最初に紹介します。
上瀧浩子弁護士の「日本国内で『日本人は誰でも殺せ』との内容は差別にはあたらない」発言についてのまとめ

まだこのサイトで紹介されているツイートはマシな方で(ただ問題のあるツイートが削除された
可能性もあり)一応議論しようとしているのですが。上瀧さんは個人攻撃を受け、アカウントが
非公開になってしまったそうです。

この上瀧さんの「日本国内で『日本人は誰でも殺せ』と言っても差別に当たらない」というのは
差別の定義を考える際に出てきた例であって、上瀧さんが『日本人は誰でも殺せ』と言っている
わけではないことは自明のことでしょう。ここでは差別の非対称性について論じているわけで、
多数派である「日本人→韓国人」に対して殺せというのは差別にあたるが、反対に韓国人が
日本人に対して殺せというのは差別でない、というのです。

じゃあ「韓国人は『日本人は誰でも殺せ』と言ってもいいのか」というと当然そうではない
ですよね。これはあくまで差別の定義の話です。つまり差別ではないけど憎悪表現ではある。
憎悪表現と差別表現とはレベルが異なるよ、という話をしているだけなのです。(ただその後の
女性差別のくだりは、一見分かりやすいようでいて、よく考えるとおかしな立論になっている
のですが、その話は後述します)

これに対して「わざわざこういう物騒な例を持ち出す必要はなかったのでは」と考える人も
いるかも知れません。確かに例の選定には慎重であるべきだし、上瀧さんの経歴を見ると
この例を持ち出すのはいらない誤解を受けかねないかなあと感じるところではあります。

ただ、インパクトのある例であることは間違いないですし、それによって考察を深める契機に
なるチャンスにかけたのだと考えます。ただ、その考察を深めるための導線が不足していると
感じますので、そこを補足してみようと思います。(私自身の意見ではないので悪しからず)

『日本人は誰でも殺せ』と言われると、たいていの日本人は不快な思いをするでしょう。
ましてそれが差別でないと言われると、そんな考え方はおかしいと憤ることは容易に想像
できます。しかし、そこで不快な思いをするのは、それが憎悪表現であるからであって、
それとは逆の『韓国人は誰でも殺せ』も同じ不快感を与えることは想像できるでしょう。
でも『韓国人は誰でも殺せ』の場合には、その不快感にプラスして「多数派からの抑圧」
が加わるのだ。それが差別表現なのですよ。

このような説明をされると、自分が受けた不快感より差別は強い不快感を受ける、との
想像が働き、差別に対する理解が深まる。その可能性にかけたのでしょう。

以上が上瀧浩子氏による差別の考察の補足でした。でしたが、私自身はそれとは異なる考えを
持っています。私自身の差別の定義はここに書いてありますが、上の話に即して言い直すと
私は多数派か少数派かは差別の定義に重要ではないと考えます。

それは上園さんが次の例に挙げている「男性/女性」を考えれば分かると思います。それに
別の方が指摘していた「アパルトヘイト化の白人による抑圧」もその例に当たります。
ですから数の問題というより権力、あるいは歴史的に蓄積された抑圧の差で考えるべき
だろうと思われますが、そんなことは些末な問題です。

私自身は、たとえ少数派や被抑圧の立場であっても、差別というのはあり得ると考えます。
上瀧さんが例として挙げられている「在日」についても、彼らは一定の勢力を持ち、それなりに
発言力があるわけですから、そんな集団から集中的に悪意を受けていれば、やはり単独で
受ける悪意とはレベルの異なるものになるでしょう。多数派かどうかは、差別の深刻さを
測る一つの(でも有力な)要素になるに過ぎません。

私がそう考えるのは、差別の定義に関わる問題だけではありません。(繰り返しますがそれは
些末な問題です)差別を解消していく目的に際して得策でないと考えるからです。もし、
差別の非対称性を定義のキーにしてしまえば、その解消は非対称性の解消に過ぎなくなり、
それは対等に力を得ることを意味することになり、相互の憎悪は(往々にして)残ります。
そうでなく、解消すべきは「相互に固定化された悪感情」であるべきなので、多数派からの
差別意識と同時に少数派が抱いてしまっている(それは多分に少数派だけの責任ではないの
ですが)憎悪も捨て去る必要があるわけです。その意味でも、抑圧された側が抱いてしまっている
差別意識を解消することも、重要なアプローチにすべきなのです。決して敵対心を煽るだけでなく。

ちなみに別の方の意見では、差別が憎悪表現に限らないと考える人もいます。確かに憎悪表現
そのものは差別のバリエーションに過ぎないと感じます。ただ、憧れも差別のバリエーション
と定義を広めてしまうと、問題を拡散させてしまうと私は考えます。このブログでは「黒人への
憧れも差別に当たるのでは」という問題として考察したことがあります。

これについては、私はステレオタイプあるいは偏見と位置付けています。それ自体も
問題にすべき場合もありますが、反面、人間の認知に関して必要な面もありまして。ですので
偏見あるいはステレオタイプは完全にはなくならないだろうと考えます。一方で差別は
なくすべきだと考えますし、またなくすことが出来ると信じています。なので発信している
わけですが。(それに、この連載のメインのテーマである「表現の自由」が大きく貢献できる
ということも強く信じているわけです)

以上で私の考察を終わります。バッシングはいやですが、批判や質問等は自由ですので、しっかり
自分の頭で考えた上で発言して頂きたいと思います。こう見えて誤解とか思慮不足については
寛容であるので、気にせずに(一応最低限の礼儀だけお願いします)コメントして下されば
幸いです。次回は、差別の問題について全然別のテーマを取り上げます。私の保守的な感性が
明らかになってしまう回になる予定です。
ラベル:音楽と社会 差別
posted by なんくい at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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