2016年05月11日

ドナルド・トランプが著作権の問題に対して突きつけるもの

こんにちは。突如リリースされたRadioheadの新作を聴きながらこの記事を書いています。
個人的にはかなり縁遠くなってしまったRadiohead〜Thom Yorke関連ですが、今回、
かなり聴きやすいですよ。少なくとも、うかつに手を出して大怪我、ということはない
みたい。もちろん入門編としては圧倒的に初期の作品が分かりやすいですが、最近の彼らが
分かりにくいという人たち(オレか?)には入りやすい作品になってるんじゃないかなあ。


さて今日は、久々の著作権記事です。著作権については楽曲をリリースしてからと思っていて
それがなかなか完成しないのでごぶさたしているのですが、ちょっと言いたいことが出てきた
ので、先にそれを言うことにしますね。

その前に、著作権でニュースがあります。ボカロネットが終わってしまうそうです。
「VOCALOIDで自動作曲」ボカロネット、9月で終了

当ブログでも紹介し、色々試みもしました。共作曲も作りましたし。(これ結構気に入ってるけどなあ)
ただ、そんなに発展性もないかなあと思っていたら、やはりそれほど広がらなかったのでしょう。
早くも撤退となったようです。このニュースについては、後で考えてみようと思います。

では本題です。表題にある通り、アメリカの大統領候補として騒がせているトランプ氏の
件です。彼の選挙キャンペーンに楽曲を無断で使われたとして、アデルやR.E.M.あるいは
ニール・ヤングなどが抗議しているという事態になっているのは知っていましたが、今度は
ローリング・ストーンズの楽曲が使われたとして彼らが抗議する事態に。これまでは抗議
されたら引き下がっていたトランプ氏も「俺は楽曲を使う権利を買っている」と反論。
それがニュースになっていますよね。

これについては、決定版といえる解説記事がありました。
ローリングストーンズにはドナルドトランプ氏に楽曲の使用中止を命じる権利があるのか

ね。非常に分かりやすいでしょ。要は色んな段階があるってことです。先ずは著作権の
精神としては、使用料を払いさえすれば誰でも楽曲を使用できるということ。これに
ついては著作者は選り好み出来ないわけですよ。どれだけ自分のキライな人や団体が
楽曲を使おうとも、それに対して抗議は出来ないわけです。日本ではJASRACが管理
している部分ですね。(エイベックスが独自に管理団体を作りましたが)

次に、音楽出版社の許諾が必要な段階。これはCMなどでその音源を直接使用する場合。
著作権だけでなく、著作隣接権が必要になる段階ですね。ただこれも、音楽出版社は
お金を払うなどで許可してしまうことが多いそうです。(そしてトランプ氏が反論している
のはこの段階を指していると思われる、とのこと)

ところが、政治運動への使用については「パブリシティ権の侵害」を理由に差し止めを
訴えることが出来るんだそうです。この精神も解説されていますね。要は「政治家の思想信条
と楽曲とが強く結びついたイメージを公衆に与える」ということだそうです。

これでかなり論点が整理されてきましたね。このブログは「著作権や知的財産権がこうなっている
から」と現状に納得するという立場を取らないので、ここから自分たちなりに今後の著作権の
あり方について考えていきたいということ、なんですよ。ですから、これらの問題を自らの
問題として、考えていきたいわけです。

このブログを読んでいる人の中にはボカロPだったり自ら音楽を作る人も少なくないでしょう。
そうでない人は、自分が熱心なファンであるアーチストの音が政治利用されることを考えて
みましょう。最近では日本会議やSEALDsなんかに楽曲を使われたら、という思考実験を
してみてもいいかも知れません。もっとも彼らは(両方とも)自らの政治信条と合わない
アーチストの楽曲は使わなそうなので、むしろ自民党や民進党といった大きな政党の方が
そういった摩擦が起きるかもですけども。

まあ平たく言ったら「もし自分とは相いれない政治主張を持った団体や個人にに自分の(好きな
アーチストの)楽曲を使われたら、どう思いますか。あるいはそういう事態を何としても避けたい
ですか。これは、著作権についてどうありたいかという議論の、一つの座標軸となりうるのです。

一方は、楽曲というものは一度世に出てしまえば公共物なのだから、どのように使われようと
著作者は文句が言えないのだという考え。しかしもう一方で、自分の生み出した楽曲だから
その楽曲に付きまとうイメージについてコントロールしたいという考えもあることでしょう。

奥田民生さんに代表曲「さすらい」という曲がありますが、一時期その楽曲は「ビッグダディ」
シリーズでひんぱんに使われて楽曲にそのイメージが強烈についてしまったことがありました。
それで、テレビシリーズを思い出して感動を新たにした人もいる一方で「やめてくれよ」と
楽曲を汚された思いがした人もいたことでしょう。


楽曲に付随するイメージは、その楽曲が流れたシチュエーションに左右され、それはその個々人
によって様々だったりしますが、テレビでの大量オンエアなどはそのイメージ作りに大きく作用
することでしょう。エルヴィス・コステロの「ヴェロニカ」を聴くと小倉さんを想像するとか。


一方でタイアップなんかでは積極的に音楽にそういうイメージを付着させようという
戦略を取ることもあるでしょう。それらをどの程度コントロールできるのか、したいのか、
すべきなのか。

また、そのコントロールの次元にしても、様々ありえます。そういった団体など「誰に」
という問題、または使われるシチュエーションなどの「どのように」という問題。当然
「いつ」「どこで」という問題も起こってくるでしょうね。(「いつ」というのはむしろ
「いつまで」という著作権の期限の問題とも絡んできます)

これは、散々問題となるカバーの問題なんかにも共通しますよね。これだって「誰に」
「どのように」といった問題で大抵もめていますから。つまりこれも、楽曲のコントロール
の問題と大きく位置付けられます。自分の楽曲を、どのようにしてほしくないのか。
そのような観点から、著作権のありようを見直すことも必要なのだと考えます。
ドナルド・トランプという「怪物」の登場は、その意味でも著作権について私達に
大きなインパクトを与えていると言えるのかも知れません。

実はこの問題については、表現の自由とも関連する論点があるのですが、それについては
稿を改めます。どちらのカテゴリーで書くかはまだ未定です。
posted by なんくい at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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