2016年11月16日

ドワンゴ川上会長のCG動画は「生命に対する侮辱」なのか

前回、ストレスが65%軽減する音楽なるものについて記事を書きましたが、それを書いた
頃に、それを上回るバズが巻き起こっていまして。これは一言言わないとなあと。

先ずはこの記事を読んで頂きましょう。

宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱」

これを読んで「宮崎駿さん相変わらずだなあ」と半ば感心していたのですが、そこからの
川上会長バッシングがあり、それに対して反論するような次の記事を見つけました。

ドワンゴ川上のグロ動画は王道アートやぞお前ら

うーん。ここには重要な論点がいくつか言及されているんですけども、怒りにまかせて書いた
せいか、それが整理されていない状態で、イマイチ伝わりにくい記事ですね。ちょっとこれは、
じっくり考える必要があるなあと感じました。

そこでここから私も考えるわけですが、今回の記事はそのイントロダクションに過ぎません。
議論のとっかかり&予告という性質を持つ記事になります。

先ず些末なところから片付けますと「そんなに怒ってない」とか言ってますけども、それは
宮崎さんが大人な対応を見せているから(一応相手は社会的地位のある会長さんですし)
であって、十分に怒りは伝わってくると考えます。質の悪い老害(←ってDIS入ってるww)と
比較しても・・・と思いますね。実際、天下の宮崎さんにあそこまで言われて川上会長も
わけの分からない弁明をしていたので。(その前には「ゾンビゲームの動きに使える」とか
言っていたのに、「世の中に見せてどうこうと、そういうもんじゃない」と弁明している)
あるいは、鈴木プロデューサーに「どこへ辿り着きたいんですか」と問われて技術者の一人が
「人間が描くのと同じように絵を描く機械」と言っていて、じゃあ人間とは異なる想定を
しているのは何なんだという矛盾があったりします。でもこれは、技術者の本音(の一部)
かも知れないけども、天下の宮崎&鈴木に問い詰められてしどろもどろになった結果とも
取れます。なので、この辺の受け答えにまともに論究するのはフェアではないかなあとも
考えます。

さて、例の反論記事では3つほどの論点が提示されています。一つはドワンゴのやっている
ことは人間の尊厳についての議論を生み出すという意味で芸術的だということ。二つ目は
AIがこのような「芸術」を生み出したのだという驚異。三つ目は、ドワンゴは制作というより
配信を行う会社なので、誰かの創作意欲をかき立てられれば勝利だということ。(なので、
今回宮崎さんの復帰を後押しした意味では勝利なんだ、そうな)このうち三つ目の話は私は
興味がないので、前半の二つの論点ですね。これは掘っておく意味があると考えます。

先ず私が違和感を抱いたのは、一つ目の「人間の尊厳についての議論を生み出す」=「芸術的」
という短絡的な議論です。議論を生み出すのが善なのでしたら、猟奇的な殺人だって肯定されて
しまいますでしょう。これまでの常識では測れない犯罪が起こった時、私達はそれをきっかけに
いろいろ議論することになりますが、その議論の材料になったからといってその犯罪が肯定
されるわけではないでしょう。ただ話は芸術なのでもちろん議論が別であることは承知している
わけですが、議論を起こす=いい芸術というのも短絡的かなあと。もちろん芸術にそういう
側面はあるし、私もどちらかというとそういうコントロバシーな表現が好きな性質ですけども、
深く考えることもないけどもただただいい表現というのも存在します。(私は思考フェチなので
そういう存在についても深く考えを巡らすのが好きだったりしますが)

それと議論を引き起こすことと好き嫌いはやはり別物ですよ。もっとも自分にそのような認識を
もたらしてくれたという意味での最低限のリスペクトは抱くべきですけども、ヤなものはヤ
だし、それが自分の倫理観に照らし合わせて許せないものであれば、なおさらです。それを、
「そういう深淵な議論を巻き起こすから」といって擁護するのは、やり過ぎな印象があります。

二つ目の議論についても違和感があります。ここでAIがやったのはあくまで計算であって、
その初期設定とかは未だ人間がやっているんですよ。もしAIが「痛みを感じないという想定
でやったら」とかアイデアを出したのでしたら大したものですけども、彼らの説明を聞くに
どうもそこまでもないようだ。とすると、いくらなんでも(現時点での)AIを買いかぶり過ぎ
だと考えます。

と先に反論めいたことを書いてしまいましたが、そのことを除けば先の記事の主張は非常に
大事です。というのも、宮崎さんの発言を受けてドワンゴをバッシングしている人達は、一体
何に怒っているのかと明確にする必要があると思うんです。私の見る限り、その辺が明確に
なっている人といない人がいるのではと感じます。(まあだいたい、明確な人ほど議論も
冷静ですよね)機械が表現することに対するアレルギーなのか、差別的と感じる表現への
嫌悪感なのか、それとも単にドワンゴが嫌いなだけなのか。

そもそも今回いきり立っている人達は、宮崎駿という錦の御旗を得て勢いづいているような
印象すら受けます。虎の威を借る狐みたいな。(それは言い過ぎか) 私は宮崎駿さんは尊敬に
値する表現者だと思いますが、表現者としては非常に極端な部類に入る人ですよ。少なくとも
表現者の正義を代表すべき人ではない。ですので宮崎さんの発言を聞いて「相変わらずだなあ」
と感心したというわけです。傾聴すべき意見ですが、極論の類ですよ。宮崎さんてスマホも
否定する人ですよ。そんな宮崎さんの意見に、スマホを駆使して乗っかるなんて滑稽ですよ。

先ず私達がすべきなのは、宮崎さんの言うことを租借しつつ、自分の感じることを掘り下げて
このような表現についてどうすべきなのかを熟考することでしょう。でないと、現実は想像を
超えてどんどん先へ行ってしまいます。鈴木さんの「どこへ辿り着きたいのですか」という
問いは技術者にだけでなく、私達にも突き付けられているのだと思います。何故なら、技術の
進歩というのは究極的には私達の望む方向性へ進むものなのだから。

ですので、今回のような問題は、おそらくこれからホットなテーマになってくると考えます。
今、表現の自由の連載では「わいせつ表現と表現規制」について扱っていますが、それが一段落
ついたら、次にこのテーマをやるべきかなあと思いました。ですので、私の中で議論を温めて
おこうと思います。皆さんも、すぐに結論を出さずにじっくりと考えてみて下さい。
posted by なんくい at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/444002145

この記事へのトラックバック