そもそものきっかけは糸井重里さんが「Fukushima50」なる映画を絶賛していて、それに対する反発が起きていまして。そこで、昔のキヨシロー批判が蒸し返されたわけですね。確か町山智浩さんだったか「原発を恐れるのはくだらなくて、命を捧げるのは素晴らしいのか」と批判しています。糸井さんのスタンスへの批判については、この一言でクリティカルヒットだと思うのですが、その昔の糸井さんの文章を読んで、これはちゃんとロジックで批判しないといけないぞと思ったわけです。
問題の文章を読んで頂きましょう。
ダーリンコラム:忌野清志郎は好きなんだけど
いかがでしょうか。これ、知らない人が読んだら説得されちゃうと思うんですよ。キヨシローの「プロテストソング」が底が浅くて糸井さんの方が深いと。ですが事実は全くの逆でして、糸井さんがキヨシローの表現を曲解していて、勝手に底が浅い代物に落とし込められている。底が浅い批判を行っているのは糸井さんの方なんですよ。それが、言葉の詐術で逆に見えちゃうだけで、その意味では非常に表現にとって犯罪的な文章だと考えます。
では、以下に糸井さんの「詐術」を解き明かしていきます。先ず「君が代」についてですが、これは別に反権力でもプロテストでも何でもないんですよ。いや、厳密には少しはあるのですが、そこに主眼はない。キヨシローさんの君が代への姿勢はあくまで中立的なんですよ。(それも、色々考えた上での中立なんですが、そこは後述)当時は、国旗と国歌が制定されるという法律が国会で通ったという時事的なネタがあり、晴れて国歌になったのだから、歌っても問題ないでしょ、というスタンスなんですよ。
もちろん、君が代は天皇を賛美する歌だとか、批判する声があることも承知している。でも、戦後に民主主義の歌として生まれ変わったのだという意見もある。それが「政治的に色々な立場がある」とレコード会社が難色を示す部分なのでしょう。でも、法律で国歌に決まったんだぜ。歌ったっていいじゃん。キヨシローさんは、あくまでこのスタンスなんですよ。
つまりここには、クイーンやジミヘンが国歌を演奏するのとはわけが違う、デリケートな問題があるわけなんですよ。少なくとも焼き直しではない。どうして僕たちは、国歌を正々堂々と歌うことが出来ないのか、という、この国の成り立ちに関する厄介な問題が横たわっている。ここでやろうとしていることは普段僕たちが見ないようにしている問題を突きつけること。そういった意味で「パンク」なんですよ。どうですか。全然ツマンナくないでしょ。
キヨシローさんの「君が代」を聴けば分かりますが、決して痛快なものでも感動を誘うものでもない。なんだか妙な違和感がある。色々考えさせられてしまう曲なんですよ。そして、それこそがキヨシローさんの狙ったことではないかと考えます。本当の意味で、国歌って何だろう。日本って何だろう。そう考えざるを得ない。そういう作用をする曲なんですね。
ついでに言えば、キヨシローさんの君が代では、間奏にアメリカの国歌が引用されています。(糸井さん聴いてないだろうから知らないだろうけど。やっぱ聴かずに批判するのはマナー違反だよね)これについて聞かれた時に「ジミヘンにリスペクトを持っていて、ジミヘンを越えたいという気持ちで引用した」などと答えたんだそうです。(ま、ウソじゃないよね。そういう側面もある)ただ、それについては自分のコラムで「『日本はアメリカの属国で云々』なんて話すわけにいかないしさ」と書いておられました。このエピソード一つとっても、色々考えた上で聴き手に委ねていることがお分かり頂けるのではないでしょうか。(実はアメリカの属国云々の問題についても、実は中立的なのではないかという説を私は取ります。この曲が発表された1999年には早くも文化的独善の空気が出始めていました。アメリカの文化的属国であるのと、今日のような日本の文化的独善主義と、どっちがいいのか。考え込んでしまいますね)
キヨシローさんの政治批判を「その程度のことなら街頭インタビューの人たちだってマイクに向かって言っている」については最後に回しましょう。お次は「プロテスト替え歌」ですか。これはRC時代の「ラブ・ミー・テンダー」についてでしょうね。当時の状況を説明いたしましょう。チェルノブイリの事故があり、原発への不安みたいなものは国民の気分として大きかった。ただ、それをテレビやラジオでは口に出来ない。特に日本の原発を批判すると圧力がかかるという状況があったわけです。(でも、後々のことを考えると、当時はまだモノが言えた方なんだよね。この騒動以降、テキも賢くなったと言うべきか。そこは後の考察に・・・)そんな中での「ラブ・ミー・テンダー」や「サマー・タイム・ブルース」でした。で、当時から「底の浅い反原発の替え歌だ」なんて批判はあったわけですよ。でも、当時のRCは人気バンドで忌野清志郎はスターでした。それが、周りが困惑する中、信念を貫き、実際に「COVERS」はRC唯一の1位獲得アルバムになったんですね。
キヨシローさんの表現に凄みが増すのは、実はその後なんですよ。一連の騒動を経て「コブラの悩み」というアルバムが出たのですが、これが痛快そのもの! 発売禁止にしたレコード会社やマスコミ、批判した人達や持ち上げた人達まで胡散臭い人間を一刀両断しているんですよ。一つだけ例を挙げます。「軽薄なジャーナリスト」
RCサクセション 軽薄なジャーナリスト
ね。凄いでしょ。最後なんて「軽薄なヒロイズムに踊らされ」ることすら拒否するわけですから。「あの発電所の中で眠りたい」ですからね。皮肉が効いているなんて言葉で片付けられない、重いものを突きつけられる思いがします。
思うに「軽薄なジャーナリスト」で攻撃しているのは、糸井さんみたいな安全地帯にいて高みの見物を決め込んでいる「良識派」なんですよね。私へのこの曲の影響力は強くて、ともすると安全地帯からモノを言いそうになる自分を戒めるような曲です。
キヨシローさんの表現が凡百のなんちゃってロッカーと異なるのは、誰もが思いつくような、言ってカッコがつくような言葉を言うのでなく、多くの人が眉をひそめるような、言われたくないイタイことを、優れた表現で射抜くところなんですよ。恐らく糸井さんは敏感な人なので、キヨシローさんの「プロテスト」表現とやらは、本人の一番突かれたくないところを突くのでしょう。それを見て見ぬふりをしたいがために、キヨシローさんのそういった側面を全力で否定するのでしょう。キヨシローさんの表現を真摯に受け止めれば、街頭インタビューのありふれた正義感とは真逆のものであることはすぐに分かるはずです。(知らない方は、以前書いた私の記事を参照してください)
より本質的なところに行きましょう。90年代以降、反原発の言説は力を失い、2000年代には少なくとも表沙汰には原発に反対する言説は現れなくなります。メディアコントロール=洗脳の完成です。それが、例の福島の事故でその仕組みが白日の下にさらされるわけで、そこで色んな人が批判されましたが、実は糸井重里さんに代表される「高踏派めいた物言い」が、キヨシローさんのような厄介な言説を封じ込めてきたわけですよ。それこそ、底の浅い反権力などと思わされてきたわけで。(でも今日の目から見ればキヨシローさんが正しかったのは明らかでしょ)その責任は問われてこなかった。ですから、今さらですけども糸井さんのキヨシロー批判はやっておく価値があると考えます。
キヨシローさんの表現は、痛快なものもあるけど、決してそれだけではない。「痛快だ」と笑っている私達を見つめている透明な目の存在にドキっとしてしまう。その意味では党派的な音楽ではないし、単純な反権力でもない。そこを見誤ることは、称賛するにせよ批判するにせよ、忌野清志郎という不世出な表現者に対する冒涜だと考えます。その意味で、糸井重里さんの底が浅い批判は、ファンの一人として許すことが出来ません。
もっと許せないのは、恐らくこの時期のキヨシローさんの音楽をちゃんと聴いていないことです。RC時代の幻影を持ち出して「「スローバラード」をつくった忌野清志郎がつくる歌が、もっと他にあるはずだろう?」だって。作ってるよ。あーゆうのは「君が代」1曲で、他にいい曲いっぱいあるし。当時は世間には認められていないけど、脂が乗り切ってる時期だぜ。それを、今の表現をちゃんと聴かずにRCの幻影を持ち出したりする輩が、キヨシローを「過去の人」にしたんですよ。少なくとも、こいつはニセモノのファンです。私はちゃんと聴いてたもんね。「冬の十字架」はそこまで好きなアルバムじゃないけど。その前とその後が、すごく好きなので。
糸井さんの仕事の中には好きなものも多くあります。「家族解散」という小説は今でも傑作だと思っていますし、「徳川埋蔵金」はテレビでドキドキしながら見ていました(嘘)。矢野顕子さんに提供した詞の中にも好きなものもあります。だからこそ、底の浅いキヨシロー批判や、あからさまな権力へのすり寄りや。お仲間が科学的にデマを流したことへのダンマリには、見ていてサミシクなります。若い時に好きだった人が、老害になり果てるのは見るに忍びない。なので、悔い改めて出直すことを期待しています。謝ることは、ちっともカッコ悪いことじゃないからね。
× × ×
いかがだったでしょうか。私は音楽が好きなので、こういう批判には黙っていられません。かと言って、底の浅い反論もヤなんですよね。なので、この話が盛り上がりかけた時に「宿題にさせて下さい」とTweetして、この文章を書きました。真夜中に宿題を終えて、どう受け取られるかドキドキしています。でも、ベストは尽くしたぞ。
ただ、それで発売中止になったとしても、フツーの人の反応は「あれじゃ発売中止になっても当然だ」。
清志郎がやりたかったのは、「なんだかんだいっても、こんな程度で発売中止だぜ」という現実を突きつける事。
だから敢えておとなしめにしたんだろうなあ、、、
というのは、私の勝手な妄想です、
糸井氏の文章は発表された当時に読み、その時から強い違和感を持ち、20年の間、決して忘れることのできない文章でした。
「なんくい」 さんが清志郎の音楽を本当に聴き込んでおられることは一読しすぐに伝わりました。特に「キヨシローさんの表現は、痛快なものもあるけど、決してそれだけではない。「痛快だ」と笑っている私達を見つめている透明な目の存在にドキっとしてしまう。」という一文は、まさに清志郎の本質をついた一文と感じます。
『ロックで独立する方法』という名著を読めば明らかなことですが、清志郎は、「プロテストソング」「反体制」という表面的な言葉で語れるものをつくってはいない。実は一過性でない、その先にある人間の根源を表現しようとしている。タイマーズのアルバムでの題材や、「君が代問題」という時事ネタを扱うときも、何か、永遠に向かって歌をつくっているといつも感じます。そういう人を本物の表現者というのでしょう。
私は決して糸井氏のアンチではない、しかし、この件については、一歩も譲ることなく、清志郎を擁護したい、ずっとそのように考えていたので、この文章を読み嬉しく感じました。
キヨシローが生きている時代と死んだいまじゃ条件が違うでしょ。
21年後の壮大な後出しじゃんけんでしかないよ。
薄っぺらい批判、ありがとうございます。
いつも言っていることですが、コメントされる方はペンネームでいいのでお名前をつけて下さい。有益な批判は大歓迎ですが、こちらも論理で書いているので、どこが「薄っぺらい」のか、論理で説得して下さいね。
ただ、それで発売中止になったとしても、フツーの人の反応は「あれじゃ発売中止になっても当然だ」。(後略)
コメントありがとうございます。ペンネームで結構ですので、名前をつけてコメントして頂けると助かります。
その昔、「君が代」の代わりになる国歌をパロディで作っていたことを思い出しました。「君が代のえげつない替え歌」、面白いアイデアだと感じました。一人一人に才能がなくても、誰もが持ってるそういう面白いアイデアを持ち寄って、何か面白いものを作る「場」を、ゆくゆくは作りたいという野望を私は持っています。(そのアイデアの様々は、このブログで色々書いております。もし興味があれば、覗いてみてください)
コメントありがとうございます。熱心なファンの方からのお褒めの言葉、心強いです。
私も糸井さんのアンチではありません。糸井さんの最大の功績は無名の人のフックアップだと考えています。「ほぼ日」から色んな才能が羽ばたいていきました。
ただ、私は音楽が何より好きなので、音楽が冒涜されるような言動にはカチンときちゃうんですよ。なので、容赦ない批判を書いてしまいました。あまりマイナスなことで共感を呼ぶよりも、プラスな共感の方がうれしいので、これを機にキヨシローさんの素晴らしさに触れる人が増え、そのバトンを受け取る人(表現者に限らず!)が増えてくれることを念願します。
>キヨシローが生きている時代と死んだいまじゃ条件が違うでしょ。
>21年後の壮大な後出しじゃんけんでしかないよ。
コメントありがとうございます。ペンネームで結構ですので、名乗って頂けると助かります。(一応、律義にコメント返しをしていますので)
「21年後の壮大な後出しじゃんけん」という批判については正しくその通りで、出来れば21年前に読みたかった、と悔やんでもどうしようもありません。
このブログは過去を懐かしむよりも、今頑張っている(戦っている)人を応援したいというのが主目的で、色々論陣を張ったりしていますので、是非ともそちらの方もお読みください。
ただ1点だけ反論させてください。「キヨシローが生きている時代と死んだいまじゃ条件が違う」と仰いますが、残念ながらそうではないんですね。過去記事にも書きましたが、キヨシローさんの表現は全く古びていない。状況はますます悪化している。と同時にこういう「底の浅い批判」もますますはびこっているのが現状なんですよ。なので、今さらながらこういう記事を書く意義はあると考え、記事にしました。ご批判は甘んじて受けます。そして、それに対しては「今」何をするのか、という言動で返していきたいと思います。
いまじゃキヨシローは反権力やらの偶像(あいどる)みたいにされちゃってるけど、何を言ってるのやらです。
右も左もエライ奴もビンボー人もなく、ラベルで語ってタテマエで語ってキレイごと語るくせに、欲深くて腹黒い連中が苦手かつ大嫌いだっただけ。
すなおな感性の高校生が大人の社会に出て感じる違和感をずーっと持ち続けた人というか。
だからイトイの「大人になれない元同級生を相手に諭してるような物言い」はかなり不愉快ですね。
たかが「自己流に国歌を歌ってるだけ」なのに、ロックに政治を持ち込まないのが大人の作法みたいな物言いしているあたり、自分こそ何でも政治フィルターの色眼鏡越しに判断しちゃってる……つまり悪しき意味でのオトナに成り果てちゃってるってことを白状してますよね。
歌いたいから歌っているのに何がいけないの?
自分の国の歌を自分流に歌って何がいけないの?
そんな透明な目の問いかけに、腹オチする答えを出せてないのが、日本のオトナ社会でしょう。
……ツイッターから飛んできて、論考よんで熱くなって書き散らしました。失礼しました
アジア音楽事情などの他エントリーも興味深いので、たまに覗かせてください。
コメントありがとうございます。熱さが伝わるコメントでうれしいです。
書かれていることも、本当にその通りだと感じました。「大人になる」って分別がついていいことのように思えますが(そういう面も実際あるけど)ヘンに染まってしまって大事なものを見失う面もある。そういうことを考えさせられてしまいます。その意味で、非常に有益なコメントでした。重ねてお礼を言います。
他の記事も読んで下さるとのことで、ありがたいです。お気軽に立ち寄ってくださいね。