2013年05月07日

このページで発表した曲などの著作権について

ここでは自分の作った曲などを発表していくのですが、
(自分の曲以外では、著作権フリーの曲しか使わないですけどね)
自分で作った曲の著作権について、一応の立場を表明しておきます。

本当は、著作権なんてどーでもよくて、
「自由にパクっていただいて結構ですよ」と言いたいところですが
(なぜそうなのかは、おいおい明らかにしていきます)
そうもいかない事態もありうるわけです。

例えば、私の曲をパクった方が、それを商業で用いたとした場合、
やっかいなことになるわけですね。
最悪なのは、そうやってパクった曲に、その人の著作権がついてしまう事態です。
そうなるとパクられた私のほうがその曲を自由に使えない、なんて事態になりかねません。
(著作権法を丹念に読めば、私の方に著作権が存在することになるのですが、
 現実の法の適応され具合を見ていると、必ずしもそうはならない。
 それに、訴訟って非常にやっかいですしね)
そこで、次のようなガイドラインにしようと思います。

・このページで発表した曲、詞、着想などは自由に使ってもらって構いません。

・ただし「なんくいのこういう曲にインスパイアされた」などの断り書きをつけて欲しい。
 つけてもらえれば、どのように自由にしていただいても結構です。

・ただし、それを用いた曲などを商用に用いる場合はご一報いただきたい。
 いろいろなケースが考えられるので、その都度相談して決めたいと思います。

とりあえず、こんなところでしょうか。
著作権については、これからもいろいろな角度から
考えていきたいと思います。
「著作権」のカテゴリでは、そういった話が中心になるかと思います。
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2013年05月09日

違法ダウンロード法について

著作権に関して言えば、俗に「違法ダウンロード法」
と言われる著作権法の改正について議論になっていますね。

ネットで見られる議論はほとんどが改正反対です。
私もこの改正は(そのプロセスも含めて)「クソ」だと思うのですが、
どこが問題かを論じておくことが、私の著作権に対する考えを
クリアに出来るかと思いまして、今ここに書いておきます。

この問題の根っこは古くからレンタルレコードやラジオのエアチェック
などで問題になってきた「音楽を作った人に正規の対価が払われない」
という問題でして、それがデジタル化により深刻になってきた、
ということだと思います。

それに対して音楽を提供する側はそれを取り締まるという措置しか
取っていないのが現状で、それがユーザー側の不信感を増大させている
というのが現在の状況ではないでしょうか。

私は音楽を提供する側にお金を払ってもいい、いや、
積極的に払って(自分の出来る範囲ですが)支援したいとさえ思っています。
ただ、その分ユーザーの自由度を上げて欲しい

例えば、私はPodcastが大好きでよく利用しています。
Podcastにはラジオ番組のコンテンツをそのまま提供しているものも多いのですが
その場合、音楽コンテンツはカットされているのが普通です。
それは「音楽には著作権があるため、無料で提供できない」ということでしょう。
それは、分かる。

しかしラジオ番組は同時に「らじこん」という有料でコンテンツを提供する
サービスもあるんです。しかしそれも、音楽はカットされる。

私は、もう少し高額でも(1番組500円くらいが適正かな)音楽が
含まれている番組なら買いたい、と思います。
ですが、それを実現するには著作権の壁(多くはどのように権利者にお金が還元
されるか、といった実利的な問題だったりするんだと想像しますが)
が多く存在して、非常に困難な問題もあるのだと推察されます。

しかし、そのために著作権の改正をしていくべきだろう!

アップロードした人を処罰するとか、今度はダウンロードした人を・・・
といったお金を払わない人を処罰する法改正と同時に、
お金を払う人により便宜を拡大する、という法改正も行って
初めて彼らの言い分に説得力が出るんじゃないですか?
それをしない(あるいはしているように見えない)ことが
「誰のための法改正か」とユーザーに思わせ、
今日のような不信感を生んでいるのではないでしょうか。

先ほどレンタルレコードに言及しましたが、
音楽業界は(私の知るところ)2回ほど
お金を払わせる代わりにユーザーの権利を認める
という措置を取ってきました。
一つはレンタル料金に著作権料を上乗せする代わりに
レンタルレコード店の存在を認めたこと。
もう一つは、MDの料金に著作権料を上乗せする形で
CDからMDへのダウンロードを認めたことです。
(それは多分に音楽を提供する側の論理に寄った措置だけれども
ユーザーの立場からも一定の評価をすべきでしょう)
それが、CCCDの登場から風向きがおかしくなってきたのでしょうか。

私は音楽が大好きなので、音楽産業が衰退していくのを見るのは
心苦しいです。音楽業界に対して文句を言いたいことも
多々ありますが、感謝している部分の方が多いです。
「CDが売れなくなったのは昔に比べてアーチストの作品の質が落ちた」
とかしたり顔で語る人もいますが、私はそうは思いません。
今も、優れた作品はたくさん生み出されている。
ただ、以前ほどそれが報われないというか、
届くべき人に届いていないのだと思います。

そうした現状に風穴を開けるには、著作権の問題をいろいろな人が
じっくり考えていくことなのではないかと思うのです。
私も、微力ながらその議論に参加したいと思います。
posted by なんくい at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月31日

JASRACを悪者にするわけではないですが

このブログで歌詞についての考察を行っていますが、
そこでは「歌ネット」などへのリンクにとどめ、
歌詞の引用は行っていません。
また、YouTubeの貼り付けも、公式にUPされたものに限っています。

それは、著作権法をなるべく遵守しようという当ブログの方針によるものです。
ですが、著作権法を遵守するということと、それを是認することとは
意味は異なります。

これまでいろいろな歌詞を紹介し、それらについて若干のコメントをしましたが、
それらを読まれた方は、隔靴掻痒の印象を受けたかも知れません。
しかし、もし私が「何行目の○○が・・・」というような分析をしようものなら
こんな場末のブログであっても、JASRACが文句を言ってくると予想されるからです。
(ただ先ほど調べてみると、livedoor Blogでは歌詞を掲載できるそうですね。
 当ブログでも、状況に応じていろいろ考えてみるべきかも知れません)

この記事では、問題が分かりやすいので、JASRACの著作権をめぐる運動について
考えてみたいと思うのです。

例をいくつか挙げてみたいと思います。
・The虎舞竜の高橋ジョージさんは今でも年間数千万円の印税収入があるそうです。
 あの大ヒット曲を持っているとはいえ、今現在CDの売り上げやカラオケ収入だけで
 そこまでの金額がいくとは考えにくい。やはり、歌詞の引用による収入が大きいらしい。
 その是非はともかく(少なくとも、高橋さんは恩恵を預かっているに過ぎない)
 JASRACがいかに「仕事」しているかが現れる例でしょう。

・大槻ケンジさんが自分の小説(かエッセイ)に自分の歌詞を引用しようとして
 JASRACにお金を徴収されるとかいう話になって憤っていたという話を
 彼のエッセイで読んだことがあります。
 自分の作品を自由に使うことが出来ないという不条理を示す好例だと思います。

全般的に引用に関しては、文筆の世界ではかなりゆるく、歌詞の世界は異様に厳しい
(最近は少しずつ変わってきているようですが)と言えるでしょう。
タチの悪いブラックジョークですが、イノセさんとかハシモトさんとかは、
問題発言をするなら、それを歌にして発売すればいいんです。
そうすれば、ニュースになるたびにJASRACが著作権料を徴収してくれるでしょう。
(それとは別に、問題発言が歌詞にできないという問題もありますが、それは後日

どうしてもJASRACを悪者にしているようなトーンになりますね。
私もかつてはJASRACを敵視していました。でも、そうでもないらしい。
http://wired.jp/2012/11/26/interview-copyright/

やはり本質は、著作権法という法律のあり方の問題なのだと思うんです。
著作権法ってけっこう頻繁に改正されているんですよ。
平成に入ってからで30回以上。細かな改正をちょくちょくやっているんですね。
問題は、その改正のほとんどが、JASRACや権利を持っている側の意向
ばかりが反映されているものだということです。

いや、もちろん反映していいんですよ。じゃなくて、それを同じくらいの量、
ユーザーの意向が反映されなきゃいけないんじゃないでしょうか。
昔、JASRACが著作権のあり方を考える会議の議事録を公開していて
それを読んだことがありますが、私自身の関心とあまりにかけ離れていて
愕然としたことを覚えています。だって、いかにお金をもらうか、ばかりなんだもん。

「音楽と権利」というテーマで本屋で本を探すと分かると思います。
最近でこそ、啓蒙的な内容も増えてきましたが、
「音楽でいかに金もうけするか」という本ばっかりです。
その中でも福井健策さんの著作はバランスが取れていて、
読んでいて勉強になりますが。
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A) [新書] / 福井 健策 (...

私自身の考えは、おいおい述べていきますが、
なるべく自由に音楽を楽しみたい、ということに尽きます。
それをするのに制約が多いから、自分の著作物を使って
自由に楽しむ提案をしたいし、皆さんにも楽しんでもらいたい、
と思っているんですが。

話をJASRACと著作権の話に戻ると、
こういう問題って条件闘争の部分が大きいと思うんです。
(全然別の話題ですが、風営法とクラブの問題にも共通すると思います。
 それについては、別に書くつもりですが)
ユーザーの「こうしたい」という要望と、権利者の要望との
すり合わせが法律という形になってくるわけですから。

じゃあ、どういう要望を出していくのか。
それを、これからじっくりと書いていきます。
ただ要望だけでなく、理論武装も必要だと思うので。続きを読む
posted by なんくい at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

中川敬と2つの「満月の夕」

中川敬という、私の大好きなアーチストがいます。
ソウルフラワー・ユニオンというバンドをやっています。

彼はよく「民謡」を取り上げるんですが
(今でこそロック畑の人が民謡というのは普通になりましたが
 彼が始めた当時はずいぶん物議をかもしたものです・・・
 という話はまたいずれ)
その扱い方が独特なんです。

なんというか、完全に「俺の歌」というスタンスで
歌詞なんかも勝手に変えて歌ったりします。
そのことについて聞かれたときの彼の答えがふるっているんです。
(手元にそのテキストがないので、うろ覚えになってしまいます)

民謡というのは多くの人に歌い継がれてきたもので、
その過程でメロディや歌詞なども改変がなされてきたはず。
おれもその末裔にいるんやから、おれのスタンスで歌っていくことは
非常に自然なことなんだ。

だいたいこういう感じのことを言っていたと思います。
カッコイイ! と同時に、非常に示唆に富む話だと思いませんか。

民謡というのは誰が作ったかということは知られていない。
そもそも決まった誰かが作ったわけでなく(おそらく)
いろんな人がアイデアを持ち寄りながら、だんだん曲として
固まってきたものなのかも知れません。
(その成り立ち自体、多様なパターンがありそうです)
そして、時代と共に改変されたりもしたことでしょう。
実際、複数のバージョンをもつ民謡だってあります。

そんな彼の代表曲に「満月の夕」という曲があります。
この曲も、実は不思議な成り立ちを持つ曲なんですね。

そもその、中川敬さんが山口洋さん(ヒートウェイヴというバンド?をやってます)
と一緒に曲作りをして、出来かけていた曲らしい。
そこへ阪神大震災が起き、中川さんはバンドの仲間らと
被災地をめぐる活動を始めます。(チンドンみたいなことをやっていた)
その時の思いを胸に、件の曲を一気に完成させてしまったと。
それが、ソウルフラワー・バージョンの「満月の夕」です。
http://www.uta-net.com/song/40142/
(公的なYouTubeがないので、歌詞のみです)

それを聴いて、山口さんは彼なりのスタンスで歌詞を書き換えました。
それが、ヒートウェイヴ・バージョンの「満月の夕」です。
http://www.five-d.co.jp/heatwave/disco/lyrics/a05/08.html

というふうに、この曲は最初から、2つのバージョンが存在してしまう
という事態になるわけです。
聴いていただけると分かるとおり、非常に力を持った曲なので、
数多くのカバーバージョンが存在します。
その中で、ガガガSPの歌詞を見てください。
http://www.uta-net.com/song/16601/

両方の折衷のような歌詞ですね。
このように、歌うときのスタンスによって自在に歌詞をカスタマイズ
できるような、非常に自由で豊かな曲のあり方になっていると思うのです。
そしてそれは、成り立ちから2つのバージョンがあったということから
来ているのだと思います。

えーと、著作権の問題、徐々に本丸の議論へ近づいています。
次回、さらにディープな例を提示し、考察を進めていきたいと思います。
posted by なんくい at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

沈黙を名付ける?

「4分33秒」という曲をご存知ですか?
「ジョン・ケージ」という作曲家のことは知らなくても、
この「4分33秒」という曲のことは知っているという人も多いでしょう。

この曲は、4分33秒の演奏時間の間、演奏者は何もしない。
つまりその間「無音」になるというのです。
実際は演奏者が何もしないと客がざわついたり、
空調の音がやけに聞こえたり・・・とハプニング的な音が生じます。
それも含めた「作品」だと言ってはいるのですが、
「無音」が作品になっている、というインパクトの前には薄れてしまってます。
つまり、ジョン・ケージは「無音」を音楽作品として提示した
ということに(結果として)なります。

それって完全に「言ったもの勝ち」じゃないか?
この話を最初に聞いたときの私の感想です。(まだ中学生でした)
これ以降、誰かが無音を曲だと言い張っても、
ジョン・ケージのパクリになってしまいます。
これは著作権、いやもっとラディカルに作品を出すということに
関する大きな皮肉を提示しているのだと思うのです。
(ただ調べてみると、無音を音楽として提示したのはジョンケージが
 初めてではなく、ダダイズムの運動の中でいくつか先例があるとのこと。
 ただし4分33秒ほど有名ではないし、ここで書くことの趣旨には
 さして影響しないので、ジョン・ケージが無音を作品にしたという体で書きます)

これまでに、沈黙に「音楽」を感じたということは何人もいたことでしょう。
いや、どの人にもそういう経験があるといっていいかも知れません。
しかし、無音を「作品」として提示するということは
それとは大きく意味が異なりますよね。
つまり、音楽を生み出すということと、
それを「作品」という形にすることとは
異なる行為
だというのです。

聡明な読者なら、著作権が関わっているのは「作品」の方である
ということは分かっていただけると思います。
私は、著作権というものを「固定化された作品と
その背後で生み出されようとする音楽」という
音楽の根本までさかのぼって考えていきたい
のです。
「無音」が「作品」になるという現象は、
それを考える上で大きな示唆を与えてくれるように感じます。

しかし。この「4分33秒」という作品。実際はジョン・ケージが創始した
「不確定性の音楽」という文脈の中で捉えられるべき作品なんですね。
それは、楽譜によって固定化された「作品」というものを疑おう、
脱固定化することで生まれ出る音楽のダイナミズムを重視しよう、
という試みだったわけです。
つまり「作品主義」という前提を疑うための作品だったわけ。
それが、「作品主義」の最もグロテスクな部分をあぶりだしている
というのは、なんとも皮肉な話だと思いませんか。
(いや、そこまで考えてケージはこの曲を発表したのかも)
posted by なんくい at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

同一性保持権って?

ここまでの議論のまとめ:
音楽を作る(生み出される)という行為と、作品にまとめるという行為は
別物であり、著作権は後者にかかるものである。
このブログの著者は、この両者の違いを重視しつつ、立場としては、
前者の行為をなるべく自由に行えるようにしたい、と考えています。
http://eatnaan.seesaa.net/article/366139734.html
http://eatnaan.seesaa.net/article/366242146.html
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音楽は誰のものだ、と思うわけですよ。
よく、曲は世に出されたらもう聞き手のものだと
そんな物言いを聞くことがよくあります。

その昔、「おふくろさん騒動」というものがありました。
森進一さんが、彼の代表曲「おふくろさん」を歌うときに、
イントロで台詞をつけていたんですね。
それを、作詞者である川内康範さんが「許せない」と激怒。
森さんに「おふくろさんは歌わせない」と言ったわけです。

後で調べてみると、この騒動の背景には著作権の問題以外の
どろどろした要素があるらしくて、ですからこの問題を
著作権の問題のみで斬ったりするのは少し違うのかなあ、とも思います。
しかし、そんなことを知らない当時の私は
「何の権限があってそんなこと言えるんだ」
と川内さんに憤慨していたものでした。
「曲を作るやつって、そんなに偉いのかよ」と。
(私自身、曲を作るからかも知れませんが)

いや、確かにイントロの台詞は、私が聞いても「クサイ」と思ってしまう
代物で、好きか嫌いかで言えば、嫌いです。
その意味では私は、川内さんと感性を共有する方だと思うのですが、
でも、禁止するのは違うだろう、と思っていました。

似たような感想を抱いた事件にPE’Zの「大地讃頌」問題があります。
「大地讃頌」という曲は、中学校辺りで合唱曲として非常に人気らしく
それをインスト・ジャズ・バンド(といってもかなりロック寄り)のPE’Zが
カバーしたところ、作曲者の佐藤眞さんがストップをかけた。
何でも、この曲は彼の指定したアレンジ以外でやってはいけないのだそうな。
「何たる横暴!」と怒り心頭に達したのですが、世の中多様な価値観があり、
それを認めることが大事だというのが私の信条なので、敬して遠ざけていたんですが。

さて、これらの問題に共通するのが「同一性保持権」というのだそうです。
完成された作品について、作者の許可なく勝手に変えてはいけない、というものです。
確かに、作者の意に沿わない形でいじられたら、たまったものじゃない。
そう思うクリエイターも多いでしょう。

これは、特に小説なんかで顕著でしょう。結末が変わってしまったら、
もうその作品とは異なるのでは、と思ってしまいますよね。
ただ、小説の場合、それにインスパイアされた別の作品、
という例はたくさんあるわけです。
志賀直哉さんが、シェークスピアの「ハムレット」を基に敵役の
クローディアスの立場から描いた「クローディアスの日記」という作品とか。

音楽でも、クラシックの世界では、面白いサンプルがあります。
(是非、探して聴いてみてください!)
先ずバッハの「《平均律クラヴィーア曲集第1巻》前奏曲ハ長調(BWV846)」という曲。
そしてグノーの「アヴェ・マリア」という曲ですが、恐れ多くも、バッハ大先生の
曲を伴奏に用いているわけですね。今なら大騒動になるでしょうか。

(でも、クラッシックは著作権が切れている曲が多いせいか、マッシュアップ曲が
 数多く存在します。今度、特集しますか)

要は、同一性保持権というのは、程度問題だと思うんですね。どの程度の改変までなら
OKか。そして、その許容度に個人差があるだろうから、作者の許諾という基準に
なっているのでしょう。

それはここまでの考察で(ある程度は)承知しつつも、
特に日本で大きい「作者が絶対だ」という風潮を何とかしたいと思うんですね。
こういう権利が認められつつも、究極的には音楽は聞き手のものだと思うから。
posted by なんくい at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月28日

結局、金が欲しいだけだろ?

挑発的なタイトルをつけてしまいましたが、前回あえて
「音楽とは」のカテゴリーで投稿した記事の続きです。

「著作権」というものは「自分の生み出した作品を他人が勝手に使ってはいけない」
という権利であり、もし他人がその作品を使ってお金もうけをしたなら、
それ相応の額を著作権者に払わなくてはならない、というものです。
つまり、お金の問題なのです。

それはこの議論を始める時にもしていたことなので、繰り返しになりますが、
お金の問題である、ということが問題を複雑化させているわけなんですね。

例えば著作権と(このブログが重視する)音楽の自由とのせめぎあいの問題が、
もし芸術家のエゴの問題(←これは実は非常に大事なものだと思う)だけならば
議論を尽くしていけば折り合いがつけられる問題だと思うんです。
しかし、そこにカネが絡んでくるから大変なんです。

以前、同一性保持権の話を書きましたが、著作権は現状の日本では
作者の死後50年まで有効となっています。
(これがTPPで75年になるかも知れませんが。このブログは音楽のページ
 なのであまり政治のことは書かないつもりなんですが、TPP賛成とか言って
 いる人は、自分が責任もって日本の国益をもたらすように交渉しろよと思って
 しまいます。関係ない話してすみません)
しかし、死後50年で著作権が切れたとしても、そこで同一性の保持がなくなるか
と言えばそうではないですよね。残る作品は、きちんと同一性が保持される。
(ただ他人のアレンジは自由になりますけども)
著作権が切れるというのは、そこでお金が発生する権利が消えるということなんです。

ここで、作者の死後50年とか75年とか言っているけど、作者が死んでいるのに
誰にその権利があるのか、と思いませんか?
普通に考えれば、遺族ですよね。ですが「権利」というものは売買できるんです。
昔、マイケル・ジャクソンがビートルズの権利を買ったとかいうニュースを聞いて
不思議な感じがしましたけども、そういうことが起こりうるわけです。

しかし、そういう個人が持っているケースよりも、企業などが持っているというケース
の方が一般的なんです。著作権というとき、よくディズニー社の話が取りざたされます。
しかし、もしミッキーマウスの著作権が切れたとしても、ディズニー社は変わらずに
ミッキーマウスで商売は出来ると思うんです。他の人も自由に商売できちゃうだけで。
その時、ディズニー社はそのばったもんミッキーとどう対峙するか企業戦略が
問われることでしょう。でも、商売できないわけではないはずです。
(現在あげているほどの莫大な利益は望めないかも知れませんが)

ディズニーの話はいいんです。文句言いたいことはたくさんありますけど。
それより音楽の話をしましょう。音楽をめぐる権利の多く(詳しくは次回以降
やりますね。自分も再勉強が必要だ)はレコード会社かその関連企業が持っています。
ミュージシャン達が到底払えない金額を使ってレコーディングするんですから
権利の多くを会社が持つのもそれなりに正当性のある行為でしょう。
そして、音楽をめぐるいろいろな消費行為によって生じたお金の多くを
企業が回収するようになっているわけなんですね。

ところが最近、消費者がどんどん音楽にお金を使わなくなってきている。
これは日本だけでなく、全世界的な傾向らしいです。
しかしよく考えてみて下さい。お金を払わなくなっているのは
コンテンツ産業全般、と言えるかも知れないんです。
少し前に話題になった本がありましたけども。
フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 [ハードカバー] / クリス・アンダーソン (著);...

この問題の根っこを考えるのは、私には荷が重過ぎる問題です。
音楽について言えば、この「フリー」の潮流でもろに打撃を受けた分野だった
ということだと思います。それは、音楽のビジネスモデルが最も打撃を受けやすい
ものだったから、なのでしょう。

そのモデルにしがみついて、さらに著作権に関する締め付けを強化しよう
というのが今の音楽業界の主流に思えます。それが息苦しさを増し、
ますます人々が音楽から離れてしまう。・・・
これが現状ではないでしょうか。

ですから、音楽の自由を重視するという立場のこのブログでも、
音楽の未来のために、著作権とお金の問題について考えていきたいんです。
今現在、未来への提言というのは、私の中には獏としたものしかありません。
現在のビジネスモデルの考察をしながら、可能性を探っていきたいと思ってます。


タグ:音楽と社会
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2013年07月10日

興味深い記事を2つ紹介

このブログでは著作権について書いていますが、
それに関連して読んでもらいたい記事が2つあるので紹介します。

“楽曲は無料、ライブも無料”の時代を--日本の音楽業界に挑む米国人シンガー

私この人と問題意識をかなり共有していますね。「日本の音楽業界は、人々に
本当に音楽を楽しんでもらおうと考えているように思えない」という意見や
それなら自分は、それとは違うところで好き勝手やらせてもらうぜというスタンスも。
(私はまだ何も出来ていないですけども)

まあ現状認識では少し違うところもあるんですけどね。日本でもSIONさんは大分前から
YouTubeで無料でライヴ音源を公式に公開しています。(最近ではGLAYとかいくつか
出てきてます。独立独歩でやっている人たちがやはり多いですかね)
「JASRACは何もしない」という言い切りは多分にクリエイター目線だなと思いますね。
音楽を使う側としては非常に不自由を強いる団体という印象ですから。
全く同じ意見というのはあり得ないですから。読んでいて非常に触発される記事でした。

音楽プロデューサー・佐久間正英氏が語る「音楽業界の危機的状況」

佐久間さんは、個人的には「エレカシをブレイクさせたプロデューサー」なんですけど。
GLAYやジュディマリなど、90年代を代表するプロデューサーの一人でしょう。

もともと佐久間さんがご自身のブログで「レコーディング文化が危機だ」という記事を
書いたところ、様々な反響があったそうで、それを踏まえた記事なんだそうです。
元の記事も読みましたが、レコーディングに携わる人にとっては、ごく真っ当な意見
ではないでしょうかね。それに対していろいろ言いたい人はいるでしょうが。

このインタビュー記事はそれに比べて佐久間さんの音楽業界全体をバランスよく見ている
側面がよく出ていると思います。現状の法律が表現する人の自由を阻害しているという件
説得力があります。(個人的に「我が意を得たり」という意見だと言うのもありますけど)

面白いのは「違法ダウンロード刑事罰化も笑い話になるだろう」という考察。
いずれは音を「所有する」よりもクラウドにアクセスして、好きな時に好きな曲を
好きな再生装置で再生できる、という世の中になっていくでしょうから。
(そこでどうマネタイズしていくのかという問題はあるでしょうが、今日の違法
 ダウンロード云々という問題は霧消するでしょうね。)

じゃあ、音楽の未来はどうしていけばいいのか、ということを考えたくなりますが、
それは先に取って置いて、このブログではもう少し著作権の問題について突っ込んで
考えていきます。しばらくはお金の話になりますが、お付き合いください。
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2013年07月14日

音楽業界は「兵糧攻め」にあっている

挑発的なタイトルですが、著作権とお金の問題を考察する記事です。

音楽にたずさわる人がどうやってお金を得ているのか、考えてみます。
それは、大きくいって消費者が支払ったお金と広告収入です。

そのうち、消費者が払ったお金というのは分かりやすいですね。
CDを買ったり、ライヴに行ったり、カラオケで歌ったり。
そういった際に消費者が払ったお金が、大きな収入源になっているわけです。

もう一つの広告収入とはどういうものでしょうか。
世の中にはいろいろな形の「広告」が存在します。
新聞や雑誌、TVなどの広告は分かりやすいですよね。
ネットだって、方々で広告を見かけます。
それ以外でも、サッカーのユニフォームとか意外なところに広告は隠れています。
私の聞いた話では、映画やドラマの小道具なんかも一種の広告なんだそうですね。
映画で有名な俳優さんが新商品を使うことで宣伝効果になる、ということで、
小道具によっては、メーカーがお金を払って使ってもらうこともあるとか。

音楽に関連する広告収入は、先ずは電波で使用される場合ですね。
TVやラジオ、映画などで用いられる場合です。
例えばラジオである曲が流れた場合、その曲の使用料が広告収入から
支払われるわけです。CMのタイアップもそうですよね。
そのCMが流れるたびに、音楽の使用量が発生するわけです。

というわけで、メディアで音楽が流れる場合、その音楽の使用料が発生する。
これが、音楽に広告収入が入る最も一般的な形なのです。

それとは別に、プレイヤーが特定の楽器メーカーと契約を結ぶこともあるそうです。
最近では、ハマ・オカモトさんがニュースになっていました。
ハマ・オカモトさんはベーシストですから、特定のメーカーのベースを使う
(企業名を明かさなければ他のも使えるらしいですけど)代わりに、その使用料を
メーカーが払う、というもの。ちょうどスポーツ選手が用具メーカーと契約を
結ぶのと同じような形ですね。

じゃあ、その広告収入というのはどういうところから出ているのか。
普通に考えれば企業ですが、もう少し突っ込んで考えてみましょう。
ではその企業はどうして広告を出すのか。効果があるからですね。

最近はユーザーの情報に応じて広告が変わるということが可能らしく、
ネットではその人の好みに合わせて「アナタへのオススメ」なんて広告が来ます。
これだって、広告を出すことで、その商品を消費者が購入することを期待して
いるわけですよね。つまり、広告を出すその大本も消費者の払ったお金なんです。

ということで、音楽にお金を支払っているのは、究極的には我々消費者なんですね。
最近、音楽にお金を使う人が減ってきているという話をよく聞きます。
(実際私の周りでもその傾向は強まっています)
それは、音楽業界から見れば、兵糧攻めにあっている。
という事態に映っていることでしょう。
posted by なんくい at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月31日

他人の褌を使う流儀

著作権の問題について、考察を進めているところで、
この問題に関連して騒ぎが起きていました。

http://chikai.tact-be.com/

土屋アンナさんが舞台を降板したというニュースです。
このニュースをyahooのトップニュースとかで見ていた時には「自分には関係のない事件」
と思って何ら関心がなかったのですが。これが著作権に関係する事件らしいんです。

http://ameblo.jp/anna-tsuchiya/entry-11582894955.html

http://ameblo.jp/sakura-smile-for-you/entry-11582675117.html

どうも、制作者側が原作者の意向を無視して物事を進めたらしいです。
これだけだと一方的なので、反対の立場の主張を取り上げた記事も。

http://netallica.yahoo.co.jp/news/20130730-00000019-modelp

これを読むと何が事実で・・・ということによって意見が異なりそうですが、
著作権について考えてきたこのブログならではの立場で考えたいと思います。

といっても、このブログのこれまでの記事を読んでくれた人は、誤解するかも知れません。
というのも、これまでの私の記事はこんなことを書いていました。
「同一性保持権って?」
ここでは森進一さんの「おふくろさん」騒動などを取り上げ、作者が絶対ではないと
いう主張をしました。(一応、程度問題とは書きましたが)

「「音楽」といううねりの中で」
前の記事を踏まえて、その創作物も前の創作物の影響を受けている。「音楽」という
大きなうなりの中から恩恵を受けている。創作するというのはそこへのささやかな
恩返しなのだ、という趣旨のことを書きました。

そうすると、「原作者は許可していないとか言っているけど、そんなに原作者がエライ
のかよ」とか「表現という大きなものから考えれば、何が原作で・・・なんて議論は
小さい小さい。そんなケツの穴の小さいことを言いなさんな」と制作者側を擁護する
ロジックになりそうです。

そーじゃねーから!!!

問題は、そこに「ビジネス」が絡んできていることなんです。
(であるから、お金の問題をこつこつと考察していたわけです。今回のケースは今後の
 議論についても、なかなか重大な示唆を与える案件と言えるかも知れません)
他人の創作物を使ってビジネスをするには、やはりそれなりの流儀が必要だと思うのです。

例えば、私が発表する(発表した)楽曲やコードに関する説明などは自由に使って
もらって構いません。しかし、それでビジネスをするとなれば、話は別です。
私が納得しない形で、ビジネスに使われたくはありません。

今回の案件は、結局「契約はどうなっていたのか」というのがキーになりそうです。
しかし、私はそれは実は重要な問題ではないのでは、と考えています。
というのも、原作者がよく分からないまま、彼女に不利な契約を結ばされている
こともあり得るからです。

一般論として、表現をする人というのは著作権については無知です。
(それではいけないと思うのですが、法律の条文がどうとかまでは致し方ないのでは)
一方、それを使ってビジネスをする側は、そういった契約のプロです。
普通に考えて、どちらが有利なのかは明らかでしょう。

ちなみに「慣習ではこうなっています」というのはあまり意味がないと思っています。
表現をする側の希望に応じて、様々な形の契約があって然るべきです。
(そういう意味で、契約のオプションが少なすぎるのではないでしょうか)
だいたいが「うちの事務所ではこういう形です」のような形では?と。

契約云々ということでもそうですが、やはり表現というものを大きく捉えても
今回の演出家や制作者側には問題があると言わざるを得ません。
双方の言い分を聞いて、制作者側の言い分が正しいとしても、彼らの言動は
原作者への礼儀を欠いていると思うのです。

原作から二次的に創作物を作る、あるいはそれにインスパイアされて創作する
という場合、先行作品へのリスペクトが必須だと思うんです。
極端な話、私はパクリについてかなりの容認派なんですが、それも先行作品への
「後ろめたさ」があって面白さが成り立つのだと考えています。それが
「オレがパクってやったおかげで有名になったんだ」みたいな態度になると
違うでしょう、となるのです。(この例え、分かりにくいかなあ)

この舞台の話に戻すと、この演出家は原作者の納得のいく形にすり合わせよう
という努力をどれだけされたのかなあ、と疑問です。演出家の発言からはそれは
見えてきません。(あ、舞台を作る側がエゴを主張するのはありだと思うんです)
「言った」「言わない」ではなく、舞台の制作者側が、原作をどれだけリスペクト
していたのだろうか。ただ金儲けしたかっただけじゃねーか、と勘ぐられても
仕方がないと思うのです。

さらに、表現という大きなもの(今回は音楽ではないので、より一般化して)から
考えても、制作者側の態度は表現を舐めてる。この人達は表現から何を受け取り
何を返そうとしていたのか。(といっても原作の忠実にという問題ではないんです。
原作から話を変えるのなら、原作とどう格闘するか、という気概の問題です)
その中身よりもビジネスしか見えてこない制作者側に嫌悪感すら抱きます。

と断言してしまうのも、制作者側は「誰が悪者なのか」のような視点しかなく、
肝心の「どういう舞台を作りたかったのか」という主張が聞こえてこないから。
公式ブログで「企画の概要」も読みましたが、完全に原作とキャストに乗っかった
名前ありきのものでしかないと感じたからです。(そりゃ代役立てられないよな)
ですから、この記事に対して文句があるのなら、テメエの表現論を世に問うべきだろ
と挑発しておきます。(こんな場末のブログの記事読まないだろうけど)

実は、今回の件は原作者の自伝という形で、その話をゆがめられたくない、という
側面もあるのですが、その側面は考慮の外に入れて考察しました。
(それでなくても、答えはもう出ているので。一応お断りしておきます)

というわけで、今回の考察を踏まえつつ、著作権とお金の問題の考察を続けます。
タグ:著作権
posted by なんくい at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする