2013年08月15日

「表現の自由と差別」始めます

またまた新シリーズの立ち上げです。

「表現の自由」については、以前「この国の歌に表現の自由はない」という記事
書きました。そこで問題提起をして一応終わっていたのですが、
この間のサザンの記事にも書きましたが、表現規制の問題は聞き手の問題だなあ
と思ったんです。聞き手の側が表現を規制したがっているんじゃないかと。

それに加えてタマフルで高橋ヨシキさんが表現規制に関する素晴らしい考察を
されていて触発された部分もあります。
(文字起こしサイトがあります。著作権上の問題がありますので、トップページだけ
 紹介します。そこから「宇多丸のウィークエンド・シャッフル」のカテゴリーで
 各自探してください。何度も言いますが必読です)

私はこの「ドレミファソランド」を行く行くは音楽の解放区にしたいと思っています。
(今はそのための準備期間です。環境整備とかクリアしないといけない問題が多い)
その上でもこの「表現の自由」の問題は、きちんと考えておいた方がいいだろう。
それはガイドラインを作る上でも意味があるはず。

このブログの記事を読んでもらえれば、私が音楽の自由を高めていきたい
と考えていることは明白だと思います。ですから表現の自由の問題は切実です。
かと言って「表現の自由」というものを100%認めるべきだ、とは考えていません。
その際には「差別」の問題と向き合わないといけないと思っています。

私がこれから展開する「表現の自由」の問題は、1993年の筒井康隆さんの「断筆」
とそれをめぐる様々な動きに影響を受けています。あの論争に関わった人達は
結果として「表現の自由と差別」についての見識が深まったと考えます。
あの問題に関する各論については、ここでは言及を避けます。
(あれからも個人的には考え続け、その問題意識とはかなり変わってきています)
ただ、その論争の見取り図として(未だに)最良の本を紹介しておきます。
筒井康隆「断筆」めぐる大論争 [ペーパーバック] / 月刊『創』編集部 (著); 創出版 (刊)

ということで、次回は基本の論について書きます。
posted by なんくい at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月29日

「表現・言論の自由」の根拠

著作権の問題・音楽と政治、そしてこの表現の自由と差別。
いつしか重いテーマの連載をたくさん抱えてしまったなんくいです。
(自分で勝手にそうしちゃっているんですけどね)
でもまあ、気長にやりますので、気軽に付き合ってくださいよ。
こちらは10年くらいのスパンで意味のあることができたら、くらいに
考えていますので。

というわけで、表現の自由と差別について書き始めます。
最初は根本のところから書き起こしていきます。
先ずは表現の自由の根拠についてです。

先ず、人間の自由について最大限に認められているものは何だと思いますか?
中学校の公民レベルの問題ですが、答えは「思考の自由」です。
人は、自分の脳みその中だけなら何を考えてもいいのです。
どんな犯罪まがいの考えでさえ、それを自分の心の中に留めている限りは
それを制限することは何人にも出来ません。

もちろん、他人の脳みその中に入り込んで自由を制限しようとする輩もいます。
それは「洗脳」なんて大げさなものでなくても、日常レベルでも大いにあります。
人間、他人と影響を与え合って生きているわけですから、完全な自由などあり得ません。
その時代や社会、あるいは脳というハードウェアの制限も受けるでしょう。

ですが、この場合の「自由」とはあくまでもルール上でのこと。
どんなことを思っても、それはアウトですということにはならない、ということだと
理解してください。それが「思考の自由」です。

思考の自由は無制限ですが、それを外に出す段になれば話は変わります。
それが「言論の自由」とか「表現の自由」と言われているもののレベルになります。
思考の自由と比べれば小さくなりますが、それでも人には言論や表現の自由が
かなりの程度保障されています。一応これも「精神の自由」の中に分類されますし。
(自由には他に「経済活動の自由」や「身体の自由」などがあります)

人は言いたいことを言い、表現する自由があります。それは「民主主義の根幹をなす」
とされている重要な権利であると教科書には書いています。
そこに私はもう少し「表現・言論の自由」の根拠を補強したいと思います。
それは「人は皆ちがうから」ということです。

どんな人でも「他人と全く同じ意見」という人はいません。皆少しずつ違う。
だから、どんな人でも自分の意見を表明することが出来る。それが
「表現・言論の自由」が存在することの意味だと私は考えます。

もちろん一人一人の意見が全く異なるというわけはないでしょう。
共通部分を持つことも多くありますし、それを表明することにも意味は
あります。(社会を形成する上で合意の醸成は必須ですから)
ただ「他人とは違う自分の意見を表明することが言論・表現の自由の本道だ」
と考えておくことは重要だと考えます。この後に展開する差別論との関係において。

それはこの後本格的に考察していくつもりですが、今簡単にだけ例を挙げておきます。
「他人と違っていることが表現の自由の根拠だ」と言えば、自分の意見が他人と
違っていても恐れずに発信することが出来ますし、自分と異なる他人の意見を受け取る
際にもより寛容になれるはずです。それが当たり前ですし、言論の自由が存在する意味
ですから、他人の意見を封殺するわけにはいかないわけです。

じゃあ他人と違っていることが何故表現の自由の根拠なのだ、と言われるかも知れません。
それに答えるには、生物の基本戦略は多様性だと答えておきましょう。
なるべく多様なものを作り出し、残していく。それが環境の変化に耐えうるための
生物の知恵なんですね。ですから、人類全体のことを考えたとき、多様な考えを
保存しておくことが、人類の発展に寄与できる、と考えるわけです。

以上でいいですかね。今回は「表現・言論の自由」と書いたり「表現の自由」と書いたり
表記が一定しませんでした。それはまだ、概念を整理していないからです。
そこで次回、その辺の概念の整理から、表現の自由に関するもう一つ重要な側面に
迫りたいと考えております。お堅い話が続きますが(基本的にこの連載はそうですが)
ガマンして、時々は訪れて読んでみてください。
posted by なんくい at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月05日

表現の自由と言論の自由

表現の自由と差別の連載の第2回です。

本題に入る前に。こんなニュースが飛び込んできました。
『生理的に受け付けない』バイオリニストがAKBを侮辱し炎上!Twitter閉鎖する騒ぎに

AKB云々よりも、言論の自由に関係する事件だと思ったので、取り上げます。
こういう炎上騒ぎを聞くたびに暗澹たる気分になってしまいます。
炎上させている人たちは、そうすることで自分の首を絞めていることに気づかない
のでしょうか。どんどん物が言えない、息苦しい社会を作っているということに。

自分の気に食わない発言を批判するのは自由です。でも、炎上させて閉鎖に追い込むのは
やり過ぎです。批判する時ほど節度というものが求められるのではないでしょうか。

今回の表現はあくまでも好悪の発露であって(嫌いの中でもきつい表現ですが)名誉毀損とか
そこまでの事態ではないと思います。バイオリニストは大人気ないとは思いますが、
そこも含めてもう少し寛容にいかないでしょうかね。

こういうことを繰り返しているとAKBのファンは批判を許さない非寛容な連中だという
イメージを作り出してAKBの皆さんにとってもマイナスだと思いますよ。
悪口言われっぱなしで悔しいなら、もっと冴えたやり方で対抗して欲しいですね。
(今回の事態は、これから当連載で展開する議論を先取りしています。興味のある方は
 今後もお付き合いください。かなり詳しく論理展開します)

さて今回は、言論の自由、あるいは表現の自由といった用語の整理をするのでした。
教科書を読むと「表現の自由の一部に言論の自由がある」と考えるそうです。
基本的にはその理解でいいと思います。表現の自由は言論だけでなく、創作物も含む
ということです。私達がメインで興味を持つ「音楽」も創作物の一部です。

前回は「表現の自由が成立する根拠は、一人一人が違うということだ」という結論を
書きました。今回は、それに加えて言論と創作物の違いを論じます。

佐々木中さんという人がいます。哲学者であり、作家である人で多くの著作があります。
佐々木さんがタマフルに出演した時、小説と哲学書の違いを聞かれてこう答えています。
「過ちでしか言えない真実がある。(中略)そういうのは過ちを書いてはいけない
 哲学書では書けない」それはフィクションでしか書けない、と言うのです。

創作物は間違ったことを含みうる、という指摘はそれ自体優れたフィクション論である
と同時に、表現の自由を考える際にも大きな示唆を与えてくれます。

言論というのは基本的には正しいことを言う場です。間違っちゃいけない、とまでは
言えないにせよ、本人が正しいと信じることを言うとされています。
少なくとも犯罪を推奨するとか犯罪的な欲望を肯定するというのはアウトでしょう。

一方で創作物は間違った主張を含むことが出来ます。実際に殺人を犯したり言論で
殺人を教唆したりしたら犯罪ですが、フィクションの世界ではおびただしい殺人が
繰り広げられています。

間違った考えということで言えば、三島由紀夫の『金閣寺』という作品は金閣寺を
放火した犯人を主人公にしたものです。ここには「犯罪者はどこへ行っても断罪される。
文学しか犯罪者を擁護できない」という著者の心意気があるように感じます。

ここまでの議論をまとめると、過ちを含みうるか否かで言論の自由と創作物の自由に
差をつけている、という話になります。それで話が終われば簡単なのですが、
そうは行かないのがやっかいなんですね。原理としてはそれでいいと思うんです。
ですが、「原理として創作物の自由の方が広い」ということが、特に差別との関わりに
おいて、よりやっかいな問題を引き起こしていると、私は考えています。
その辺の話は、この後細かく見ていくこととします。

次回は差別について書きます。今回の話と逆方向からの議論ですが、
先ずは基本的な議論を一通りすませたいので。
posted by なんくい at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月13日

差別とは何か?

表現の自由と差別の連載、第3回です。
前2回とは逆に、差別について書きます。
最初は「差別とは何か」について私なりの見解を書きます。

というのも「差別と区別って境界はあいまいだよね」とか差別を区別と混同して
何やら言っている人が結構目に付くからです。ちげーよ。全然違うっつうに!

というわけで、差別についてきちんと定義しようと言うわけです。
その話を進めるために、先ずは一見関係のない話からします。

なんという小説だったかは忘れましたが、いじめている子が自らを正当化する
ロジックを展開していました。曰く、(記憶があいまいで申し訳ない)
「私たちは○○さんが嫌いなだけなんです。嫌いだから相手にしていないだけで。
 先生は、私たちが間違っていると主張することは出来ないと思います。だって
 私たちの好き嫌いは感情であって、それを制御することは誰にも出来ないからです」

皆さんがもし先生ならどのように反論しますか? それともそのロジックを
正しいと思いますか? その子達にどう答えるかは難しい問題ですが、その
ロジックの間違っている点なら簡単に指摘することは出来ます。それは、
「もし自然に○○さんを嫌っているなら、そうかも知れない。でも実際は
 皆で示し合わせて○○さんを嫌うことにしている。あなた達は自分達で
 好き嫌いを制御しているじゃないか」
つまり、それは「組織的に作られた好き嫌い」だから問題なわけです。

何故こんな話を持ち出したかというと、それこそが差別と区別とを分ける
明確なポイントだからです。私の定義では差別とは
「社会的に固定化された悪感情」
のことを指します。そしてその悪感情は、人々の心の中にだけでなく、社会的な
制度(法律など)に具現化されている場合もあるわけです。
ついこの間「婚外子」の相続の問題が裁判で争われましたが、これなどは
「差別と法律」という領域の問題だと捉えられます。
(ただこの問題は非常に難しいものを含むので、稿を改めます)

先ほどの私の定義で、キーワードは3つあります。「固定化」「社会的であること」
そして「悪感情」です。一番分かりやすい「固定化」から話しましょう。
先ほどの好き嫌いの話に戻しますと、元来好き嫌いなんてものはその時々で移り変わる
ものです。ずっと嫌いだったものが好きになったり、その逆もあるでしょう。
そもそもあるものを熱烈に嫌うということは、それに対する好意の裏返しとも言える
かも知れませんし。

それを、あらかじめ「嫌いになろう」と決め付けていることが固定化であり、
差別にはそういう側面があるということなんです。さらに個人的な好き嫌い
ではなく、みんなで取り決める。そこで「社会的である」という話になります。

好き嫌いと言うものはかなりの程度「社会の産物」だったりするんです。
私たちは、日本人ならではの美意識を知らず知らず「学習」していたりします。
ただ、現代は社会が複雑化しているので、人それぞれ好みの差が大きかったり
するんですけども。(さらに社会というものを動態的に捉えるとより複雑です)

その中で、ある社会においてその成員の多くが一定の対象に悪感情を持っている
という場合、それは社会の痕跡である可能性が高いのは当然でしょう。
また、その対象も個人というよりは「社会(の成員)」になります。(差別の場合)
その「個人」を見ずに「社会の成員」としてレッテルを貼るわけです。

さらにそれが「悪感情」であることも重要なポイントです。理性的な「区別」とは
異なり、差別は感情の産物なのです。だからこそ、解決が難しいんですね。
なかなか「理性的」に解決が出来ないものですから。

このように考えるとき、私の「反差別」へのアプローチは明確になります。
そのキーワードは「脱・固定化」です。
人が特定の対象に対して悪意を持つこと自体は、とても自然な行為です。
ただ、それが「固定化」されないようにするには、どうしていくべきか
というアプローチで考えていきます。

反差別というとき、それは社会運動であったりあるいは教育からのアプローチも
あるでしょう。ただ、当連載はあくまでも「表現の問題」として差別を
考えていくつもりです。今回は、全体の見取り図として書いています。

今回の私の定義。少し広すぎるのではないか、との批判を受けそうです。
実際は「差別」とは言えないものを含むのではないかと。
(私自身、書いていてそういう気が少しします)そこで、話を進めるために
後2回、その周辺の概念を考察していこうと思います。
一つは「偏見・ステレオタイプ」について。
もう一つは「人権思想」について、です。
posted by なんくい at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月22日

ステレオタイプ入門

ふざけんな! 1日かけて書いた(用事もあったので寝かせつつですが)原稿が
アップする段になって全部消えてしまったではないか! というわけで、
泣きながら書き直しています。(かなり大げさ? でもSeesaa BLOG謝れ!!)

そうそう、差別について書いていたんでした。前回は差別の定義をしました。
「社会的に固定化された悪感情」それが制度などで顕在化しているものも含みます。
今回は偏見、特にステレオタイプについて書きます。


というのも、当連載では表現の自由との関わりで差別の問題を見ていくので、
問題とするのはもっぱら「差別意識」についてです。ですから、差別意識を
生み出すものとして偏見、あるいはステレオタイプを取り上げるのです。

偏見というのは「公平でない、片寄った見かたや考えかた」(角川必携国語辞典)
だと辞書にあります。ですが、片寄りのない公平な見方をするのは非常に難しい
ですよね。どんな人にでも知識やものの見方に片寄りがあるはずです。
その偏見の中でも、差別意識と関わりの大きいのが「ステレオタイプ」です。

誰もがいろんな対象に対して「イメージ」を持っています。人に対してだったり
ものや土地、あるいは色とか楽器にだってイメージを抱いたりしますよね。
そのイメージが実像をどの程度反映しているか、というのが問題なのです。
というのは、その対象に接する時に、今度はそのイメージが「色眼鏡」として機能
するからです。

例えばある人を「いい人」とか「悪い人」と私たちは決めつけがちです。しかし
人間にはいろんな側面があり、それぞれに長所と短所を持っているのが普通です。
それが相手によって、あるいは状況によってそのいずれかが強調され、それを
私たちは見聞きして「いい人」とか「悪い人」と判断しているだけなのです。

個人でさえかように多面的なのに、その集まりである集団はもっと多様でしょう。
「○○人」という集団の中には、赤の他人を助けようと命を顧みずに川に飛び込む
人もいれば、人を何人も殺して平気な凶悪犯もいるでしょう。それを、一部だけを
見て「○○人は△△だ」と決めつけても、それは偏見でしかありません。

ステレオタイプとはそういったイメージが「社会的に固定化されたもの」を言います。
差別の定義とパラレルですね。差別意識もステレオタイプの一種です。それが特に
悪感情であり、その対象に著しく損害を与えうるステレオタイプが差別意識です。

では、社会集団に対するステレオタイプがどのように形成されるかを、簡単に見て
みましょう。先ずその集団を全然知らない、あるいは殆ど知らない場合、その集団
に対してのイメージを抱きにくいですから、イメージがないか単純なそれで、それほど
深刻な問題は起きにくいでしょう。(著しく的外れな場合は多いのでしょうけど)

ステレオタイプを抱きやすいのは、その社会集団を中途半端に知っている場合でしょう。
その社会集団を十分に知っている場合は、実像に近づいていくでしょうが、知識に片寄りが
ある場合、多様な社会集団の一面しか見ずに(見えずに?)ステレオタイプを抱きます。
それを「過度の一般化」と呼びます。一人、あるいは数人の成員を見て全員がそうだと
誤って判断するのです。

さらに今日的には、メディアによってステレオタイプが作り出される、あるいは強化
されるという問題もあります。ある社会集団に関する知識は、直接見聞きしたものよりも
メディアを介して知りえたものの方が普通は多いです。ですが、そのメディアの送り手も
ステレオタイプを抱いている場合(そうでない場合でも生じますが)、ステレオタイプの
強化に加担することになります。その詳細は、回を改めて論じようと思いますが。

以上のように考えを進めていくと、私たちはステレオタイプから逃れ得ないのではないか
と思えてしまいます。そのためにどうするか、というのはおいおい論じていくつもり
ですが、当面言えることとしては、自分や相手は偏見を抱きがちだということを自覚
しておくことです。特に、よく知らない物事に対してはステレオタイプを抱いている
ものだと思っておく方が賢明かも知れません。

以上、ステレオタイプについて基礎的な考察をしました。難しかったでしょうか。
次回は「人権思想」について考察します。これまた難解そうですが、あまり微に入らず
基礎的な考察と、人権思想について言いたいことを書くつもりです。
posted by なんくい at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月08日

人権思想について思うこと

ようやく解禁となったNegiccoの新曲が衝撃的すぎて、1日経ってもまだ
混乱が収まらないなんくいです。今から問題の曲のMVを貼りますが、
曲中でMeguさんが「準備はいいか?」と呼びかけている通り、
初めて聴く方は「心の準備」をして聴かれることをおすすめします。

いかがでしょうか。びっくりしたでしょ?
「郷太さんこんな曲を隠してやがったか」と思ってしまいましたね。
今年1年、Negiccoは様々な驚きを私達にもたらしてくれましたが、最後にこんな
とんでもない爆弾が用意されていたとは・・・。素晴らしすぎる。
これも例によってリリース・タイミングで応援記事を書くことになりそうですが、
さて何を書いたらいいのでしょうかね。途方にくれてしまいます。
(といいつつ、もうアイデアはあるんですけどね)

本題に入ります。といってもこれから「人権思想」について書くわけですが。
曲の感想を見に来たNegiccoファンの方は「何じゃそりゃ」と驚かれるでしょうが
えー、当ブログは表現に関連するいろいろな問題についても考察を進めておりまして、
その中で最近「表現の自由と差別」の問題についての連載を始めたところなんです。
今はまだ基礎的な考察の段階でして、そこで今回は「人権思想」を取り上げるんです。

といってもここでは「人権思想」の概略を述べる、ということはしません。もう
公民の授業等でさんざん取り上げられているでしょうから。
それより、こういう本が出ているのをご存知でしょうか。

人権を疑え! (新書y) [新書] / 宮崎 哲弥 (著); 洋泉社 (刊)

この本は「人権思想」の名の下におかしな言説がまかり通っている、として主に保守思想の
立場の論客たちが人権思想の問題点をあぶり出している、という本です。
この本に書かれている内容について、肯かれることも多々あると思うんです。

しかし、そうやって「人権思想を疑え」という本が説得力を持つのは何故なのか。
それは、「人権思想」というものがまだまだ未成熟なものだから、なのです。
決して「人権思想」が「迷信」だからではないのです。
(そもそも人権思想を「信じる」という態度自体、扱い方を誤っているのですけど)

人権思想というものは近代になって成立したもので、その内実も常にアップデートされて
いる最中なわけです。学校で習うのは「自由権」「平等権」「社会権」が代表でしょうが
そこへ「環境権」「プライバシー」「知る権利」さらには「連帯する権利」などが唱えられ
(それはまだ確立していないようですが)人権の全体像さえも未だ考察の対象なわけです。

ですから、何千年も培われた伝統的価値観の良さを現在の視点から「学び直す」ことには
大きな意味はあるのですが、ただ伝統的価値観へ単純に回帰するのは違うと思うんです。
そもそもヤですもん。かつての窮屈な身分社会は。(伝統的価値観を無批判に賞賛する方は
そういう社会に回帰した時、喜んで被差別の立場に甘んじる覚悟をお持ちなんでしょうね)

この本の後書きで「人権擁護の立場の人が人権を疑う人を講師に呼んで勉強会をしている」
と書いていますが、人権思想について真剣に考えている人はそれくらい問題意識をもって
取り組んでいますよ。それを無邪気に喜んでいちゃダメでしょう。と思っちゃいます。

ちなみに人権思想をアップデートしようとする立場の人達が書いた本も紹介しておきます。

同和教育への招待 [単行本] / 中野 陸夫, 中尾 健次, 池田 寛, 森 実 (著); 解...

この本は当連載の参考文献の一つでして「人権思想とは『誰とも仲良く』という思想でなく
『嫌いな人とも共存するために最低限守るルール』のことだ」など示唆に富みます。
(これは一応同和教育の立場で書かれていますが、人権思想をベースにしています)
人権の立場の人達の方がはるかに深く考えていることがお分かりになると思います。

ですが、それにひるんで物を言わない、というのが一番の問題、なんですね。
未だ未成熟な「人権思想」を前に進めるのは、私達一人一人の日常の深め、なのですから。
ですからこの連載でも臆せずに人権について語っていこうと思っています。

これで、準備的な考察は一応終わりです。次回からいよいよ本題へと入っていきます。
posted by なんくい at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月16日

議論の出発点

「表現の自由と差別」今回からいよいよ本題に入っていきます。

先ず、議論のとっかかりとして次の2つの事態から考えていきます。
・古い本を読んでいるとこういう記述を見かけることがあります。
    この本の記述には、今日の人権的な観点から見ると不適切と思える
    表現が見られますが、歴史的な表現として改めずに表記してあります。
 本によって表現も異なりますし、そもそも表現を改めている場合、
 上に示したように歴史としてそのまま残している場合と様々です。
 ただ、こういう表記を見て違和感を覚える方はたくさんいると思います。
・これはある方がラジオで指摘していたのですが、昔のアニメを見ている
 と、ところどころでセリフが不自然にカットされていると言います。
 (切れ切れに、突然無音のところが出てくるとか)
 これも「今日的な観点から問題がある」と見られる表現なのでしょう。

さて、皆さんはこういう事態を見てどう考えられるのでしょうか。
「ずいぶん息苦しい時代になったな」「いや、当然のことでしょう」等
いろいろな意見があることでしょう。ただこの問題はなかなかに複雑な
要素が絡んでいるので、軽々に結論を出すべき問題ではないと考えます。
今抱いている感情を大切にしつつ、議論を深めていきたいと思います。

さて、今挙げた事態について、少なくとも3つの論点が考えられます。
1.当時はOKだったが今現在はダメ、というのはどういうことなのか。
 確かに現在の「人はすべて法の下に平等である」という考えは新しく、
 身分制が普通だった時代と人権意識が異なることは大いにありえます。
 ただ、それが20世紀以降の「差別はいけない」という考えが浸透して
 きている時代のものでも、こういう表現を見かけることがあります。
 人権という概念は更新しているという話を以前書きましたが、それでも
 かつてはOKだったのに今はダメだというのはどういうことだろう、と
 疑問に思うことは極めて自然な感情だと思います。私自身、そういう感情を
 今でも持っています。ですからこの問題は考察するに値すると考えます。

2.差別表現を「隠蔽」することで却って問題になるのではないか。
 これは方法論の問題ですね。アニメのセリフカットの場合、それをカット
 することで問題がなくなるのか。かえって差別表現を「隠蔽」することに
 なっているのではないか。という疑問は当然沸いてきます。
 では前者のように注釈をつければいいのか。という問題もあります。
 ここでは差別表現にどう対峙するか、という問題を考えます。

3.今日の差別表現への対処は単なる「言い換え」や「言葉狩り」では
  ないと言います。では「何が」問題となっているのでしょうか。
 差別表現に対しては、かつては「糾弾会」なるものがあったとか
 言われています。それが一因か、メディアでは今でも使ってはいけない
 言葉のリストがあると言います。いわゆる「言い換え」「言葉狩り」の
 問題ですね。これについても考察したいですが、今被差別団体はもう
 かなり進んだ問題意識を持つようになってきています。
 そこからも学びたいと考えています。

というわけで、これからしばらくはこの3つの問題を検証していくこととします。
posted by なんくい at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月29日

差別意識は「創発される」?

差別意識が時代によって異なる、という問題について、今回から
考察を始めていきます。(音楽系のブログで突然何を?とお思いの方はこちらへ

今回は「差別意識は創発されていくものだ」という考え方を導入してみます。
今回はあくまでも概念の導入だけです。そこから考察をスタートさせていきますが。

「創発」という耳慣れない言葉を使いました。ここで意図しているのは
次のような考え方です。

道具とには機能がありますよね。椅子には人がそこに腰掛けるという機能が
あります。その機能を満たすために椅子というものは作られているわけです。

ところが道具というものは一度作られるとどのように用いられるか予想が
つかない側面もあるわけです。例えば椅子も何かの拍子に机代わりに使って
みたり(とっさに何かを書かなきゃいけない、という時など)、中には椅子を
使って人に殴りかかったりする場合だってあります。

こうして見ると機能というものは人間が「発見していく」ものに見えます。
サッカーで、オフサイドというルールはもともと、攻撃側がゴール前に選手を
配置して、そこへパスが通れば得点になりやすくなる、という事態を避ける
ために作られたのだそうです。しかし、現在のサッカーはその「オフサイド」
というルールを守備の戦略に利用したりしています。ここでルールの機能が
変容しているわけですよ。そういう事は、挙げればきりがありません。

しかし、人間は道具をどのようにでも使えるという訳ではないんですよね。
例えば椅子を机代わりに使おうとしても、椅子が柔らかかったり曲線だったり
すると、その上でものを書くのに適さないでしょう。殴りかかる場合でも
椅子がスポンジなどで出来たフニャフニャなものだと相手にダメージを
与えられません。いや、むしろ遊びで使うにはその方が適していますね。

というふうに、道具の機能はその道具の持っている性質と、それを用いる
人間の働きかけの相互作用によって生じていきます。これを「創発」と
ここでは言っています。(「創発」という言葉自身、多様な意味で使われますが)

私はある言動が差別であるかどうかは、その差別者の言動だけでなく、
周りの社会状況との相互作用の中で決まってくるのだと考えています。
人権の概念も社会状況の中で変容していきます。最近ネットで画像などが
永遠に残ってしまうという事態に対して、それを消去できる権利を認める
べきだ、なんて議論が出てきています。その是非はともかく、こうした
議論が出てくること自体、人権が社会の変化によって変容することを
見事に表しているだろうと思います。

私がこの考えを持つようになったのは「バリアフリーも相対的な概念だ」
という話をどこかで読んでからです。(例によって出典は忘れました)
バリアフリーって例えば車椅子の人にとって階段が「バリア」になる
という事態から生じているわけです。これがもし、私達が空を飛べるなら
階段だって存在しないわけですよね。ところが私達は空を飛べないから
階段がない状態が「バリア」になる。そんな私達にとっては、階段こそが
「バリアフリー」な道具になるわけです。(という説明でした)

この説明が秀逸なのは、バリアフリーは自分とは関係ない、と考える健常者に
対して、健常者にも車椅子生活者と同じ感覚を持てるような説明になっている
からです。こうやって説明されるとバリアフリーの大事さが分かりますよね。

ただ私は「相対的」というところにピンと来たんです。私達だってより便利に
しようと道具を工夫したり、自分にとって使い勝手が良いようにカスタマイズ
したりりますよね。その延長線で、階段が不便な人に工夫を施すことなんだと。
(それが大がかりにはなりますが)反対にスローブさえ作ればOKというわけ
ではなく、人や状況に応じて別のものが必要になる事だってあるわけです。

さてさて、差別の話からずいぶん遠ざかっていますよね。今から行きますよ。
よく「差別なんかしているつもりはなかった」という物言いを差別者がします。
それに対して「そのつもりがなくても被差別者が傷ついているのだ」という主張
が出てくるのですが、この問題について、ここまで書いたことを使って解き
ほぐしていきたいと思うのです。

差別というのは「社会的に固定化された悪感情」ですから、本人にそのつもりが
なくても社会意識として蓄積された差別意識を知らず知らずに刷り込まれていた
ということはあり得ます。ですから本人の「つもり」は大して意味はないのですが。
しかし、差別かどうかという評価も社会によって変容するというのです。

例えば身分社会の中で上位階級の人が下位階級の人に施しをする。これは、
その社会の中では情け深い行為だと賞賛されることでしょう。しかし現在の
平等社会から見ると、上から目線で自らの善意に酔ってはいるが、
自らの既得権益を疑おうとしない、差別的な態度に映ってしまうことでしょう。

これは極端な例ですが、差別意識を考える際にこのような事態はしばしばあります。
男女差別などで「男は仕事、女は家庭」という価値観のどこがいけないんだ、と
憤っている人もいることでしょう。(問題はその価値観の固定化なんですが)
これなどは、社会の変化により「隠れた差別」が露わになった例だと言えます。

もう少し分かりやすい例としては障害者の社会進出の問題があります。
障害の程度によりますが、一般の会社で働く障害者が出てきているのは
一つにはハード面の進歩が原因と考えられます。以前は社会進出なんて
物理的にも不可能であった障害者が、ハード面の進歩で物理的には可能だ
という状況になって、初めて「障害者にも社会進出する権利がある」と
言える状況になる。いや、そのような発想が生まれてくるのだと思います。

ずいぶん長く書きましたが、まだ言いたいことが尽くせていません。
とりあえず、現段階では人権意識にせよ差別意識にせよ、社会の変化によって
変容していくものだ、と柔軟に捉えることを主張できればよしとします。

この差別意識が「創発される」という考え方、次回以降さらに考察を進めていきます。
(今回は疲れたので、この辺で勘弁してください)
posted by なんくい at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月18日

「差別語」はどうやって生み出されるのか(その1)

前回は「差別意識が創発される」という議論をしていてちょっと
深みにはまってしまいました。それで中途半端に終わってしまって。

やはり具体例に即して議論しなきゃ、読んでいる側だけでなく、
私自身もわけが分からなくなってしまいますね。ということで、
「差別語の問題」を例に、その創発という考え方を深めたいと思います。

なお、差別語の問題は非常に難しい側面を持っていて、簡単に結論を出す
べき問題ではありません。今回はあくまで、差別語に関するある一面を
議論するのみです。

差別語には大きく2つあると私は考えています。それは、作られた当初から
相手を侮蔑するニュアンスがあったかどうか、ということです。
(ここで「差別」という表現を使っていないことに注意してください)

最近では「チョン」とか「シンショー」といった、最初から相手を侮蔑する
ことを意図して作られた表現が見られます。そういうのは明らかに差別語
ですから、使わないようにするのは当たり前の話です。

問題は後者の方。そもそもが侮蔑するニュアンスのなかった言葉の方です。
これだって、その生成過程に隠れた差別意識がひそんでいるのだ、と言われると
なかなかに反論しづらいのですが。それよりも、何が差別なのか、という社会規範
の変容が、その表現を差別語にする、ということもあると思うのです。

具体例を示しましょう。「子ども」という表現を見かけますよね。このとき、
「子供」とは書いてはいけない。「供」の字は「付き従う」という意味を持ち、
子どもの権利をないがしろにしている。だから「子ども」と書くのだ、と。

これに対して反論も根強くあります。「とも」というのは複数形を表す言い方で
そこに当て字として「共」や「共」を付けただけだから、差別語には当たらない。
むしろここで漢字とひらがなを混在させるのは日本語文化の破壊である、と。

ここで面白いのは「こども」という言葉(音)については問題視されないことです。
「とも」自体にもそういうニュアンスだってあるわけなんですけどね。「おともを
する」という言い方もありますし。(ちなみ複数形の「ども」ももともと同じ語
つまり同根でして、だから「ども」にはどちらかというと侮蔑的なニュアンスが
含まれます)「供」という漢字だけがやり玉に上がるんですね。

反対に「子ども」が日本語文化を破壊すると主張する人は、妥協案としての「子共」
はどう思うんでしょうかね。実際そう表記していた時代もあるわけですし。
(それは「子ども」を用いる人にも聞いてみたいですけども)

それはともかく、私が興味あるのは「子供」という表現が差別的だとされるに
到るプロセスの方なんです。その言い方がもともと差別的だったというよりも、
ある時期に「供」という漢字の持つ意味に引っかかったのではないか。
その背景として、子は親に従うもの、という社会規範から子自身の意思を
尊重しようという(おそらく教育業界中心の)意識の変化があったのでは。
そう私は推測しているのであります。

あわてて補足しておきますが、この辺の議論と「子供」という表記を使うべきか
という議論とは分けて考えるべきだというのが私の立場です。それは、もう少し
違う方向から考える必要があります。(それは連載を進める中で明らかにします)

私、もっと驚いたのは「大人」という表記もいけないんだそうです。その理由は
「体の小さなおとなを差別しているから」・・・これこそ差別意識が「創発」
された典型例ではないでしょうか。最初に「大人」とつけた時には想定されて
いなかった方向の議論ですよね。(昔にも「小さな大人」はいたでしょうけど。
そもそもが大きさに関する常識が昔と今でかなり異なっているはずですが)

「子供」にせよ「大人」にせよ、漢字がかなりの程度「表意文字」であることが
問題の背景にあるんですけどね。ですが漢字はかれこれ数千年の歴史を持つ文化
でして、それらの差別意識を検討していくと殆ど使えなくなると思うんですが。
「道」という字は魔よけの為に生首をいけにえにして、その後通れるようになった
とか、語源を聞くとグロテスクなものもたくさんありますし。「女偏はあるけど
男偏はない」とか、女性差別を感じさせる漢字も数多くありますよ。

話が漢字表記の問題ばかりになってしまいました。本当は漢字表記でない差別語の
問題も取り上げるべきでしょうけども。まあ分かりやすいですからね。
一応の結論としては、何が差別語かという議論をする時に、語源の問題から考察
するのは不毛だということです。そもそも語源は確定していないものの方が多い
くらいですからね。(今回の記事のために「おとな」という言葉の語源を調べ
ましたが、諸説あってどれが正しいかは確定できないですね)

ただその主張は逆も言えるのであって、語源として差別のニュアンスがないから
といっても、一度差別語が「創発」されると、それが少なくない社会的機能を
(悪い意味で)果たす、なんてこともあり得るわけですよ。

ですから差別語が「創発される」という議論はこれでは終わらないんです。
次回は、差別する側が言葉を「汚染する」側面を見ていこうと思います。
posted by なんくい at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月22日

「差別語」はどうやって生み出されるのか(その2)

表現の自由と差別の連載、前回から「差別語が生み出される過程」
について、新たな視点を導入しています。(実際はその「新たな視点」の
具体例として差別語の問題を扱っているのですが)

というのは「差別語が創発される」という考え方です。要は元々差別語でなかった
語が、使用のされ方やその語をめぐる状況の変化によって「差別語」と変化する
という話なんですが、前回は「子供」という漢字表記の差別性を検証しました。
そこで親と子に関する社会規範の変化などが原因で差別語として「創発」される
という話をしました。(詳しくは前回の記事をご覧下さい)

ただし、差別語が「創発」されるという視点は、その差別語を擁護する議論ではない
ということに気をつけて頂きたいのです。あくまで問題は、現在におけるその語の
「作用」です。その具体例として「三国人」という用語について、取り上げます。

「三国人」という語の語源には諸説あるそうですが、要は日本が敗戦後に日本に在住
していた植民地の人(ということは中国・韓国の人になります)を指す言葉です。
もともとは行政やGHQが用いていた用語で、そこに差別的なニュアンスはなかった
のだそうです。

ただ戦後の混乱期にあたり、彼らの処遇について二転三転したこともあり、様々な理由で
「三国人」という用語が差別語として在日中国人や韓国人(北朝鮮の国籍の人も)を
侮蔑的に指す言葉として用いられるようになった、とのことです。

その歴史的経緯や、そこでその語を用いることについては、この記事では扱いません。
ここで問題にしたいのは、その「三国人」なる用語がほぼ死語となっていたのに
石原慎太郎さんが東京都知事時代に演説で用いて問題になった事例のことです。

そこでは、わざわざ用いる必要のない「三国人」という用語を、あえて差別的な意味で
用いているわけです。「不法入国している外国人」で事足りますし、もう知らない人も
多い(私もその演説で初めてこの言葉を知りました。恥ずかしながら)言葉を使う必要は
ないわけですよね。明らかに中国や韓国の人を侮蔑しようという意図があるのです。

これに対して、石原さんを擁護する人はこう言います。「三国人が差別されるのには
彼らの行いに問題がある」そうしてそ三国人なる人が起こした犯罪を列挙していきます。
これは、特殊を一般と見なす錯誤を犯している、と言えるでしょう。

例えば、私は大阪出身ですから、大阪人を憎く思う人が「大阪人は犯罪者の集団だ」と
言って、大阪出身の犯罪者の例を山ほど列挙されると腹が立ちますよ。そういうリスト、
大阪人に限定しても同じくらいのものは作れるでしょう。

前にも書きましたが、一人の人間にだって良い面と同じ面もありますし、特定の国民にも
様々な人がいるわけです。その中で、良い面と悪い面それぞれに傾向があることは否定
しませんが、悪い一面だけをことさら取り上げて、その集団をその色に染めるのやり方は
歪んでいるとしか言いようがありません。

ついでだから言ってしまいましょう。最近、TV番組で竹田恒泰という人が在特会
について「彼らの差別行為は擁護しないが、彼らの主張には耳を傾けるべきことがある」
と発言して問題になりました。どうやら「在日特権」というものがあって、それによって
犯罪の温床となっている。その問題に目を向けさせたのは在特会の功績だと言うのです。

それに対しても、竹田さんを擁護する声があって、それは「現に通名を用いて犯罪を
している人がいる」などと例を挙げているわけなんですよ。手口は同じですよね。

あのね、本当にそういう問題があるのなら、そういった犯罪がどの程度行われていて、
それは普通の偽名を用いた犯罪と比べて有意に多いのかを示さないと、主張として
説得力を持たないですよ。どんな制度にだって、それを悪用する人がいるのだから、
その悪用がどの程度の広がりを持つのかが示せないと、議論にならないです。

もっとも犯罪を立証するのは非常に難しい問題があるわけで、それならその可能性と
それによる(予想される)損害を、反対にそれによる(予想される)恩恵と
秤にかけて議論する、という要は制度改革の議論にしていくべき問題なわけですよ。
それを「こんな悪いことをしている奴がいる」という議論に持っていくのは、
その集団を貶めようとする意図を感じずにはいられないのです。

議論を「三国人」の用語に戻しましょう。今ここで問題なのは「三国人」という言葉を
明らかに差別的な意図として用いている、ということです。そのような用法が差別語を
より「差別語」にしていく。差別的意図なしに使えない言葉になっていくのです。

これは「言葉の汚染」と呼ばれる現象に近いですね。卑近な例ですが「便所」を指す
言葉は、どんどんあいまい化していくそうです。「お手洗い」なんてそうですよね。
それは、直接指す言葉だと、きたない所を想像させてしまうので、なるべく直接
指さない言葉を用いようとする。しかしその用法が定着するときたない所を想像
させるようになり・・・という作用が、言葉にはあるのです。
エロを指す言葉など有名かも知れません。「ヘルス」なんて健康を指す言葉なのにね。

ということで、前回と今回とで差別語が「創発」される事態を考察してきました。
道具というのものは様々な思ってもみない使い方が出来るもので、悪用だって出来る。
言葉も思考や伝達の道具ですから、差別語として用いることが出来るわけです。

じゃあ、ある言葉を「差別語」として用いないべきか、用いても良いのか。その基準は
どうあればいいのでしょうか。次回からその議論を数回していくつもりです。
posted by なんくい at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする