2013年05月19日

歌詞について考えてみる その0

予備校の先生(最近はいろいろやられていますが)の出口汪さんがTwitterで
こういうことを書かれていたようです。

最近の歌の「歌詞」見て思うこと。。。語彙ってコトバあなたの語彙にあるかい?
何かこう、「貧相」通り越して「素寒貧」

そういえば、最近もこういうつぶやきが話題になったそうです。

翼広げ過ぎ 瞳閉じすぎ 君の名を呼び過ぎ 会いたくて会えなさ過ぎ
私弱すぎ桜舞いすぎ 母親感謝されすぎ 季節めぐりすぎ 君のこと考えすぎ
もう一人じゃなさすぎ 大切な人居なくなくなりすぎ あの頃に戻りた過ぎ
一歩づつ歩いて行き過ぎ 同じ空の下にいすぎ

そういうことを思っている人多いんでしょうね。
というわけで、歌詞の問題について、じっくり考えてみたいと思います。

私はそういう歌詞があっても構わないと思っています。
もっと言えば、その類の歌詞に感動した覚えも、あるかも知れません。
問題は「そういう歌詞ばっかり」なことではないでしょうか。

じゃあ、どういう歌詞ならいいんでしょうか?
もっといろいろ多様な歌詞があるべきなんでしょうけども、
どこまでが歌詞としてOKなのか?
何を歌ってもいいのか? 本当にいいのか?

こういう問題を突き詰めると「歌とは何か」とか
果ては音楽と社会の問題にまで行き着くのだと思います。
それを恐れずに、正面きって論じていきたいと思います。
といっても、あまりカタくならず、ゆるりとね。
(時々はシリアスな話になりますけど)

これから、このシリーズで歌詞を紹介することもあるでしょう。
ですが、歌詞の引用は著作権の問題で先ず出来ません。
公的な「歌ネット」などのページのリンクを貼りますので
各自そこで歌詞を味わってもらえればと思います。
音を聞いてみたいというのもあるかも知れませんが、
このブログではYoutubeは基本的には公的なものしか貼らないつもりです。

というわけで、これから歌詞のシリーズもよろしくお願いします。
posted by なんくい at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月21日

これからが愛じゃない、哲学だ

歌詞について考えるシリーズその1です。

タイトルは映画「スター・ウォーズ」のプロデューサーが言ったらしい言葉。
こんなことを考えて「スター・ウォーズ」シリーズを作ったとか。
(ジブリの鈴木敏夫さんの受け売りですけど)

歌の歌詞にもこういう考えがあっていいのではないか、ということで
「哲学」を感じさせる歌詞を探してみました。

先ずはSEKAI NO OWARI。このバンドは十代が考える哲学的な悩みを歌にする
そんな持ち味を持つグループのようです。(すみません。不勉強なんです)
代表的なのはこれでしょうか。
http://www.uta-net.com/song/99580/

なかなかすさまじいですね。
私が十代でこの曲に触れたら、絶対嵌っていたでしょう。
この曲の歌詞から真っ先に連想したのは次の曲です。
http://www.uta-net.com/song/76295/


RADWIMPSもその歌詞世界で若い人の間での支持が高いグループですね。
あまりに内省的な歌世界は聴く人を選ぶ気もしますが。

続いてACIDMAN。この人たち、名前は知っていましたが、こういう世界観を
持つ人たちだと、佐野元春さんの番組で知りました。
http://www.uta-net.com/song/101800/


ALMAというのはアフリカにある世界最先端の展望台だそうです。
宇宙の謎に肉薄する展望台は、宇宙の意味を問う彼らにとって格好のテーマですね。

この曲から連想される曲をもう一つ。藍坊主というバンドの曲です。
http://www.uta-net.com/song/64607/

こちらは存在論という哲学の一分野を感じさせる内容ですね。
このバンドは音楽的にもポップさと冒険心の二面性を持つバンドですが、
歌詞の世界も人懐っこさと難解さを併せ持つ、不思議な魅力を持つグループですね。

こういう歌詞を歌う人たちは、非常にマニアックな人たちだと思うかも知れません。
今日紹介した人たちは、全部それなりに人気を博しているグループです。
SEKAI NO OWARIやRADWIMPSはトップセールスを誇りますし。

でも、もっと大御所と言えるグループからも、哲学的な作品を紹介しますね。
一つめはMr. Childrenです。ミスチルは、よく知らない人たちからは
ラブソングか、よく分からない心の叫びを唄っている、みたいに思われているかも。
特に偏見を持つ人に、この歌詞を読んでもらいたい。
http://www.uta-net.com/song/52376/

日々のささいな生活と、壮大なスケールを持つ世界観(宗教観とも言いたくなる)を
絶妙に接続させた、見事な歌詞ですね。

最後に紹介するのはGLAY。この人たちこそ「扉開きすぎ・・・」の側のバンドだろうと。
確かにその側面はあります。というより、そういうJ-POPの潮流を作った
人たちの、有力な一人といっていいでしょう。GLAYのTAKUROさんは。
では、多くのフォロアーを生んだ「本物」の歌詞はどういうものか、見てみましょう。
http://www.uta-net.com/song/10483/

いかがでしょうか。TAKUROさんの凄みは、市井の人の抱く人生への感慨を
難解な言葉を使わずに表現し得るところです。
この曲はかなり特殊な(ストレートなといってもいいかも知れない)事例ですが
POPな曲でも、裏にこの人の底知れぬ苦悩が裏打ちされていることは、
GLAYの作品をちゃんと味わった人なら分かると思います。

以上、他にもいろいろありますが、きりがないのでこの辺で。
(こういうのがあるよ、というのは教えて下さい)
また、ここでは「哲学的」な歌詞を紹介し、
それに簡単なコメントをつけるだけにしました。
「こういう歌詞って、どうなんだろう」
「歌にする意味はあるのか?」
そう思う人も、いるかも知れません。

それについては、しばらくは、私自身の考えは述べず
(まだ考え中、ということもありますが)
さらにいろいろな事例を紹介していきたいと思います。
posted by なんくい at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

意味なんていらない?

歌詞の探求シリーズ、第2回です。

前回が「哲学的な歌詞」を紹介するものでしたが、
http://eatnaan.seesaa.net/article/362751362.html
今回はその真逆に行きましょう。
解説するよりも、先ずは歌詞を見てもらいたい。

先ず最初に紹介するのは「爆風スランプ」です。
皆さん、爆風スランプにはどういうイメージをお持ちですか?
「Runner」「旅人よ」「大きな玉ねぎの下で」といった曲の
イメージが大きいかも知れませんが、デビュー当時はこんな歌を歌っていました。
http://www.uta-net.com/song/4440/

いかがでしょうか。「コミックバンド」と思うかも知れません。
確かにそういう側面もあるのでしょうが、
それよりも、ありきたりの内容を歌詞に乗せたくないという
強い意志を感じませんか?
もう1曲「せたがやたがやせ」を見てもらいます。
http://petitlyrics.com/kashi/110530/

いかがでしょうか。見事なまでの意味なしっぷり、ではないでしょうか。
少なくとも、本気でこの歌詞を歌っているとは思えないですよね。
歌に情念はこめるが、それが「意味」に囚われるのを避けたい。
当時の爆風スランプにはそういう心持ちがあった。

しかし、それを続けていくのは難しい。
コミックバンドと割り切るならともかく、
人は無意味を続けていく精神力を持ち合わせていないのかも知れません。

爆風スランプもそこからだんだんマジになっていくというか、
「意味」を自ら引き受けていくようになります。
ブレイクのきっかけとなった「Runner」を
そういう宣言だと深読みすることも出来ます。
http://www.uta-net.com/song/4828/

次に紹介するのは奥田民生。この人がデビューしたユニコーンも
かなりふざけたことをやっていたわけですが、それも
「歌に意味のあることを乗せなきゃいけないの?」という疑念からでした。
ソロになって最初の頃に、そういった疑念をストレートに歌詞にしています。
http://www.uta-net.com/song/20028/

奥田民生さん辺りは(サンプラザ中野さんもそうかも知れませんが)
洋楽に影響を受けた世代で、それは歌詞よりも曲だったわけです。
そのため、意味があからさまに入ってくることに違和感があるのだと思います。
奥田民生さんはその「違和感」を抱き続けたようで、
ソロキャリアの中でも面白い試みをいろいろしています。
(機会があれば細かく紹介したいと思います)
歳相応に意味のあることも歌いつつ、意味への疑いも抱き続けた。
それが結実したのがこの曲だと思います。
http://www.uta-net.com/song/14806/
意味への疑いが感動へと結実していく。なんて総括するのは簡単だけど
どうしてそうなのか。なかなかに考察しがいのある曲だと思います。

奥田民生さんと似たような問題意識を抱きつつ、別の進化をとげたのが
電気グルーヴだと思います。

先ず初期の楽曲はこんなです。
http://www.uta-net.com/song/23559/
http://www.uta-net.com/song/39434/

瀧さんと卓球さんの詞を1つずつ紹介しました。
彼らの場合、前者2組より「毒を振りまきたい」という衝動が強く
それゆえ、別の意味で「意味」に引きずられるきらいがあったのだと思います。
それが、テクノという音に重きを置くジャンルをバックグラウンドに持つ強みか、
意味よりも語感、というふうに軌道修正されていきます。
と言いつつ、日本語で歌うということの「意味」も踏まえたい。
ということで、行間を強く感じさせる作風へと進化していきます。
その最新形がこちら。
http://www.uta-net.com/song/140336/
これは公式のPVもありました。


いかがでしょうか。音として聞いていただければ、発語の快感として
非常によく出来ているのがお分かりいただけると思います。
それでいて、彼ら特有の「毒」もしっかり感じさせる作り。見事です。

なんだか前回の哲学歌詞が前振りになっているみたいですね。
大急ぎで付け加えておきますが、私は前回紹介した哲学的な歌詞も大好きです。
そんな自分と、今回の路線に共感する自分と、矛盾なく同居しているんです。

それは、私が特殊な好みを持っているから、だけではないのだと信じています。
意味への探求と、意味からの逃走。
その両方を抱合できるのは、
「歌」というものがそれだけ大きいからだと思うのです。
posted by なんくい at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

この国の歌に言論の自由はない

歌詞の問題についていろいろ考察しているわけなんですが、
その際に避けて通れない問題があります。

いわゆる「放送禁止」「発売禁止」の問題です。

この問題は一部では有名で、本もいくつか出ています。
放送禁止歌 (知恵の森文庫) [文庫] / 森 達也 (著); 知恵の森 (刊)

どうも「放送上不適切」とか言って放送できなかったり、
発売が中止になったり(その結果、インディーズで発売になったり)することがあります。

まあ実際、放送上不適切な発言というのはメディアの世界では普通にあって
ですから、何でも言論の自由がいいと思うわけではないんです。

ただ、その基準が一般の発言よりも厳しすぎるのではないでしょうか。

まあ発売禁止もので有名なものはつぼイノリオさんの一連の作品ですね。
その中でも有名なのは「金太の大冒険」でしょう。
↓歌詞リンクです
http://www.uta-net.com/song/23394/

これは「金太」の下に「ま」で始まる言葉をつなげて「金玉〜」になる
(それでいていちいち別の意味が生じるところがスゴイですけど)
という言葉遊び(それも非常に秀悦な)なんですが、下ネタということでアウト。
でも「金玉」くらいカワイイもんだと思いませんか?
(ただつぼイ先生、これに輪をかけてアブナイ言葉で同じことを繰り返してますが)

これはまあ、下ネタが禁止されるのはいつの世にもあることで
(つぼイノリオ先生も確信犯ですからねえ)
これはまあそんなに目くじら立てることでもないでしょう。
問題はここからです。

ミドリカワ書房というアーチストの「母さん」という曲。
これはメジャーで出すことをしぶられて、
やむなくインディーズで発売されたものです。
↓歌詞リンクです
http://www.uta-net.com/song/51343/

最近、町山智浩さんが「外国では犯罪者の立場になって歌った曲があるが
日本にはほとんどない」ということをおっしゃっているんですが。
本当はこんな歌 [単行本(ソフトカバー)] / 町山智浩 (著); アスキー・メディアワークス...

あるんです、日本にもこういう歌が!
ただ日本では規制されるんですけどね。

続いて、エレファントカシマシの「ガストロンジャー」という曲。
これは時の首相(その当時は小渕さん)を批判している、として
NHKで放送禁止になりました。
↓歌詞リンクです
http://www.uta-net.com/song/57042/

ニュースなんかでは、時の政権を批判するなんて自由ですよね。
そういうことが禁じられるということがあれば、大問題でしょう。
しかし、歌の世界では、政治的なメッセージが敬遠される風潮がある。
(しかもこの曲、真正面に政権を批判するだけでなく、ちょっとだけ小渕さんを
 おちょくっているくらいなんですけどね)

最後に紹介するのは、真心ブラザーズの「拝啓、ジョン・レノン」
これは、某FM局で放送禁止になりました。その理由が
「ジョン・レノンを批判している」
↓歌詞リンクです
http://www.uta-net.com/song/9235/

この曲、よく歌詞を吟味していただければ、ジョン・レノンを敬愛していることが
分かるはずです。ただ、真にジョンのメッセージを受け継ごうとする時、
彼に対するネガティブな意見に向き合わなければならないわけで
(それは世評という部分もあるでしょうし、自らの声という部分もある)
それをしっかりと歌詞にすることが、誠実さなんだと思うんです。

それは別としても、もしジョン・レノンを批判したりバカにしたりした曲だったとしても、
それを流せない、というのはどういうのでしょうか。
それこそ海外では、ビッグなアーチストを蹴落とそうとDISするということは
平気で行われる行為です。でも、日本では出来ない。

この問題、例を挙げればきりがないんですが、このくらい挙げておけば十分でしょう。
歌詞について考えるシリーズは、出口汪さんのTwitterの発言から始めました。
私はTwitterをやっていないので、彼に直接反論できないんですが、
彼に言えるとすれば、こう言いたいです。

確かにそういう部分はあるかも知れません。
しかし、この国の歌詞が自由とは程遠い状態にあることを、
出口先生はどうお考えですか?



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posted by なんくい at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月16日

叙事詩というジャンル?

いつか教科書で習いました。
詩の内容の分類で「叙事詩」というものがあると。

歌詞の世界でも、物語を描くというのは非常に有効な方法の一つで
というより、歌の世界を作っていく中で、そういった物語の描写が
大事、なんて話を、作詞技法の本などでよく見聞きします。

ただ、もう一度立ち止まって考えたい。
歌の世界で物語を描くって、どういうことなんだろう?

そのことを考察するために、今回は極端な例をいくつか挙げます。

先ずは、2度目の登場ですねエレファントカシマシ。
彼らの「歴史」という曲は、森鴎外の一生を描いたものです。

http://www.uta-net.com/song/29290/

これは非常に不思議なテイストを持つ曲ですね。
鴎外の一生というだけでなく、鴎外作品への批評もあり、
そこに「歴史」というタイトルがついているように、
鴎外の一生からヒントを得て、歴史の中に生きる自分たちを考察する。
そして「死に様こそが大事」という結論に至る。

洋楽には「SONGS FOR DRELLA」というアルバム一枚でアンディ・ウォーホールの
生涯を描いたというものもあります。これには追悼の意味合いも深いのですが、
純粋な追悼ソングは最後の一曲だけで、後は彼の生涯の一場面を切り取ったもの
なんですね。人の生涯を描く曲の場合、それを見つめる歌い手のスタンスが
ポイントなのかな、と思います。

次は、バンプ・オブ・チキンの「K」という曲。彼らの初期は、
非常にストーリー色の強いものでした。現在とかなり違う作風ですね。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B06663

続いて、ブランキー・ジェット・シティの「悪いひとたち」これは歌詞の一部が
問題になったこともあるそうです。(麻薬のくだり)

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=k-130508-052

こういう歌の場合、その物語の世界に惹かれ、気分が高揚してくる効果があります。
それが音楽との相乗効果で、大きな感動を呼ぶ、と。

でも、それって感動させたいから物語を作るのでしょうか。
物語や小説を書くのと、歌の物語と、何が違うのでしょうか。

えーと、この記事を書くに当たって、特に結論を持たずに進めているんですが、
こういった歌詞を取り上げていて、昔の歌謡曲にヘンな物語ものが多いことに
思い当たりました。一例として、ピンク・レディーの「サウスポー」を見ましょう。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37262

ピンクレディーって、こういう不思議な曲が多いんですね。「UFO」とかも
そうですし。この「サウスポー」かなりマンガチックというか、あり得ない
シチュエーションで、女の子が「さあ、どうする?」みたいなところで終わっていて
一体、何をしたいんだ、と思うんですが。
でも当時はこれをみんな喜んで口ずさんでいたわけで。

書いていて、どんどんわけが分からなくなってきました。
でも「分からない」で終わってもさすがにまずいでしょうから、
いくばくかヒントだけでも欲しいものです。
そこで、星野源さんの「喧嘩」という曲を見てみましょう。

http://www.uta-net.com/song/119595/

佐野元春さんの歌詞の番組で、星野さんは「この曲はそもそも『入れ歯』と歌いたくて
『入れ歯』という言葉が不自然に聞こえないように物語を作った」と言っていました。
それは動機の一つなんでしょうけど、人は何がしかの言葉を歌いたい、という欲求が
あるということはヒントの一つではないでしょうか。同じように、何がしかの情景とか
物語とかを歌いたい、という欲求が、歌う動機の中にありそうです。
それが何なのか、ということは引き続き考えていきたいと思います。
posted by なんくい at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月20日

音楽と政治1 斉藤和義氏「ずっとウソだった」に対するいきものがかり・水野良樹氏の意見

しばらくやっていない歌詞の考察シリーズ。
何回か政治的な歌詞の問題について書くことにします。

そのきっかけになった記事です。

最初に触れるのは、タイトルにあるように斉藤和義さんの「ずっとウソだった」と
それに対する水野良樹さんの反応についてです。

これを読んでいる人はだいたい知っていると思いますが、復習をかねて。
一昨年の大震災の直後、福島の原発で水素爆発とか言っていた時期に、
斉藤和義さんが、自身のヒット曲「ずっと好きだった」の歌詞を変えて
「ずっとウソだった」としてネットに発表しました。

その反原発をストレートに歌った歌詞は大きな反響を呼びましたが、
中でもいきものがかりのリーダーである水野良樹さんが「大嫌い」と
ツイッターでつぶやいたことで、これも大きな反響を呼びました。

そのことに関して、水野さん本人が細かく考察しているものがあります。
斉藤和義氏「ずっとウソだった」に対する,いきものがかり・水野良樹リーダーの意見

先ず、大前提として、ミュージシャン本人が音楽と政治というテーマに関して
自身のスタンスをここまで明確に述べるというケースは、そうそうないと重います。
その意味で、貴重な意見ですし、それを表明した水野さんに敬意を表したい。
この先、批判的なことを書いたりはしますが、尊敬の念は揺るぎなくあります。
彼自身、自分のスタンスを「弱虫」「逃げ」だと何回か言及されていますが、
全然そんなことないと思いますし(彼のスタンス自体、立派な見識だと思います)
それを自らの活動で証明しているとも思います。

では、水野さんの文章に沿って考察を進めていきます。
先ず彼は政治的な主張を直接的に歌詞に乗せることに懐疑的だと言います。
それは、音楽に直接的な主張を乗せることで、本来複雑な因子が絡み合っている問題を
単純化させる危険性を感じているからだという理由を挙げています。

早速難しいところですね。私の理解ではこの部分は2通りの解釈が成り立つと思います。
彼の言う「本来複雑な因子が絡み合って構成されている問題」が何を指すかで変わります。
一つは政治的な問題そのもの。もう一つは音楽の政治性です。

先ず前者ですが、じゃあ歌じゃなくても主張でも単純化するものではないか。
歌だと特別に単純化するのだろうか。という歌が事態を単純化させるか問題と、
そもそも単純化させるのが悪いのか。だったら歌に限らず、特定の(偏った)主張が
だめなのではないか。という問題がありえます。これ自体、考察するに値するテーマです。

しかし私は、ここでの解釈は後者の方ではないかと思っています。彼の文章でその前に
「音楽の政治性」について語っているからです。ラブソングを歌っても政治性を帯びる
という考察です。(ここは当にその通りだと思います)

じゃあ、その「音楽の政治性」が本来複雑な因子が絡み合って構成されているとして
(それは当ブログで考察していきます)それが政治的な主張によって単純化されるのか。
私は「違う」と思うんですね。

先ず、政治的な主張といっても様々なものがあり、その立場によっても音楽がもたらす
政治的な作用は大きく変わっていくでしょう。少数派、多数派によっても違うし、
極論か折衷的な意見かによっても異なってきます。(それは音楽に限らないでしょう)
あるいは、複数の政治的立場が1曲の中で交差する、なんて方法論もあり得るでしょう。
そういう政治的なメッセージの内容によって、その政治性が異なるというのが一つ。

もう一つの座標軸はそれをどれだけ直接的に述べるのか、という方法論についてです。
水野さんは直接的なものに限定されているようですが、隠喩的に述べる曲もあります。
同じ直接的でも、訴えるスタンスもあれば、皮肉的なスタンスもあります。

つまり、私は言いたいのは「政治的だから良い/悪い」じゃなくて、大事なのはあくまで
中身だということです。それに、ここで述べている「単純化への危険性」は政治に
限ったことではありません。(そもそも、どこからが政治なのかという大問題もある)

やはり、ここで考察されている内容は、小難しく理屈を捏ね回しているだけで、
自分自身を納得させるためだけの「ためにする議論」にしかなっていないと思います。
やはり、題材が「政治」だったから嫌いなんじゃないか、と疑ってしまいます。

ただ、水野さんをちょっとだけ弁護すると、現状の日本の音楽をめぐる状況では
「政治」というテーマを取り上げることに大きな偏見があり、それだけでレッテルを
貼ってしまう、という状況があると思います。それを「単純化」と言っている部分は
あるのかも知れません。

水野さんの書いている文章から、彼のスタンスを斟酌すると、そういった大文字の「政治」
にはコミットしたくないが、自らの「対人関係」的な歌詞も政治的であることは自覚
している。そういった小文字の政治にのみコミットしていくのだ。
それは一つの立場だし、尊重したいと思います。

そういったスタンスの人の中にも二通りの人種がいる、と推察しています。
自分自身、聞き手としては政治的なものは大好きだが、自分の表現には入れない、
という人と、政治的なものを聞くのも嫌いという人。水野さんは後者のようですね。

水野さんの考察についてはこのくらいにして(言いたいことはたくさんあるけど)
肝心の「ずっとウソだった」について少し書きます。

斉藤和義さんは、もともと直接的に政治的なメッセージを投げかける人ではない
ですよね。それは震災後も揺らいでいないと思います。「ずっとウソだった」も
公式にはリリースしていないですし、紅白に出ても淡々と演奏しつつ、ストラップに
「Nuke Is Over」と書いてある。そんな戦い方をするアーチストです。

といいつつも、直接的ではないものの、政治的とも言える歌詞は散見されます。
デビュー曲が「僕の見たビートルズはTVの中」ですからね。
独特のひねたスタンスを感じさせます。

そんな彼の「ずっとウソだった」に対する様々な意見で一番好きなのは
吉井和哉さんによる「元の曲と実は同じメッセージなんだよね」という評です。
「ずっとウソだった」は怒りが前面に出た表現になっているだけで、メッセージ
としては等価だと言うのです。

それは、反原発の「ずっとウソだった」にもラブソングの要素が内包されている
と同時に、元曲にも政治的なメッセージが内包されている、という解釈も出来ます。
水野さんの言う「音楽の政治性」を想起させる話ですね。


このテーマ。言いたいことがたくさん出てしまって収拾がつかないですね。
ただ、論点はこれで出揃ったと思うので、整理しておきます。

・音楽が(言葉による主張と比べて)複雑な事態を単純化するのか否か。
・事態を単純化させることが悪いことなのか、という議論。
・いかなる表現でも現実に作用するという意味での政治性という問題。
・直接的なメッセージか、間接的なメッセージか、という方法論の問題。
・どこからが「政治的」と言えるのか、という境界の問題。
・特にこの国における「政治的表現」への偏見の問題。

ざっとこんな感じでしょうか。これら一つ一つについて、いろいろな事例を用いて
考察していこうかと思います。(詳細は未定ですけど)


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posted by なんくい at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

音楽と政治2 本当は危ないジョン・レノン

音楽と政治について考える短期連載。のつもりでしたが、
前回の記事で深い問題にぶち当たってしまい、これは本腰入れないと
いけないかなあ、と思い直しています。
いくつかの事例を紹介して終わるつもりだったんですけどね。

前回の記事で出てきた問題の見取り図を再掲します。
1.音楽が(言葉による主張と比べて)複雑な事態を単純化するのか否か。
2.事態を単純化させることが悪いことなのか、という議論。
3.いかなる表現でも現実に作用するという意味での政治性という問題。
4.直接的なメッセージか、間接的なメッセージか、という方法論の問題。
5.どこからが「政治的」と言えるのか、という境界の問題。
6.特にこの国における「政治的表現」への偏見の問題。

これらの問題に直接答える事例ではないのですが、今回はジョン・レノンについて
書きたいと思います。ジョンはこういった問題についてのいわば「万能カード」の
ような機能を持ってしまっているように思えます。「ジョンがやってんだから偉い」
みたいな。そこに批判的検討が加えられていないのではないでしょうか。
(私も「ジョンが〜〜、キヨシローが〜〜」なんて書いちゃってますが)

例えば「LOVE&PEACE」という言葉があります。非常に人口に膾炙した
今ではありふれた言葉です。「愛と平和」。この意味、どのように捉えていますか?
「え、そんなの当たり前じゃん。憎しみ合わずに愛し合えば平和になるってことでしょ」

そう捉えるのが自然ですよね。でも、当時のメッセージはちょっと違ったんですね。
「平和」はともかく多義的なのは「愛」でして、この場合の「愛」とは「性愛」のこと
だったわけです。つまり
「みんなでラブラブチュッチュすれば平和になる」
というメッセージだったんです。

その証拠に、ジョン・レノンはオノ・ヨーコと「公開ベッド・イン」なんてことを
やってのけるわけですね。(このイベントには対メディアという要素も絡んできますが)

今「LOVE&PEACE」なんて子供でも唱える正義の言葉、みたいになってますが
この言葉の「本当の意味」をどれだけ理解しているんでしょうかね。
(理解してたら使うの躊躇するでしょうけど)

このことからも分かる通り、ジョン・レノンという人は誰もが納得する正論を
訴え続けた人、というふうには(生きている間は)見られなかったんです。
むしろ「良識のある人が眉をひそめる言動をするやっかいな人」だった。

彼の代表曲「イマジン」は、今でこそ「国境のない世界を夢見る」という
ジョンの理想を描いた曲とされています。(そういう側面ももちろんあります)
ですが、是非歌詞を調べて、この曲の歌い出しを確かめて欲しいんです。
最初に「何のない世界」を想像しようといっているのか。

天国なんです。

何故最初に天国が来るかと言うと、ジョン・レノンは長年キリスト教(それも原理主義)
と闘い続けていたわけなんです。「ビートルズ焼却事件」などあったりして
(この当時は釈明を余儀なくされたようですが)ソロになってからも「God」という曲で
「僕は神を信じない」と歌ったり。かなりぶつかっていたわけです。

そう考えると、冒頭のフレーズは「天国なんてなくたっていいじゃん」くらいに
訳したくなります。強烈な皮肉が込められているんですね。
さらに過激なのは、他にないと想像しようと呼びかけているのが「countries」と
「possessions」なんですね。それぞれ「国家なんてなくてもいいじゃん」
「私的所有もなくたっていいじゃん」と私は訳したくなります。
(ですから国境のない世界〜は完全なる意訳)
それだけ過激(私的所有を否定しようなんて人は今でもあんまりいないのでは?)
な内容だから「夢想家とあなたは言うかも知れない」なんて歌うわけです。

そんなジョン・レノンのメッセージは、彼の死後、その文脈から切り離されて
過激性は漂白され、普遍性を獲得した、と言えるでしょう。
(それはプラスの側面とマイナスの側面の両方あるでしょう)
前回の1.で考察した音楽の政治性が複雑な因子によって構成されている、という
指摘のうちの、文脈の問題に当たると思います。
彼の「LOVE&PEACE」も、文脈が変わるとその意味(というより作用と
言うべきか)は変わってくるのも当然でしょう。

もう一つ、ジョンのメッセージがこれだけの力を持ちえたのは、その過激性による
ものも大きかったのかなあ、と思うんです。これは前回の4.の方法論にも関係する
話です。(これはパブリック・エナミーを取り上げる時にまた触れます)あえて
過激にすることで、相手を振り向かせることが出来る。誰もが言うような話など
熱心なファン以外は右から左へ聞き流されてしまうでしょうからね。

メッセージの過激性と時代による漂白、という点で言えば、対照的に写るアーチストが
います。言わずと知れた忌野清志郎さんです。次回はその話を書きます。
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posted by なんくい at 18:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月24日

音楽と政治3 全く古びていないキヨシロー

これまた久々の「音楽と政治」シリーズ。今回は忌野清志郎さんを
取り上げます。もう亡くなって4年も経つのですが、彼のメッセージは
全く古びていない。どころか今、聞くべきだろう! という記事です。
前回のジョン・レノンが9月1日か。ずいぶん経つなあ)

ジョン・レノンはその過激性が漂白された、なんて話を書きましたが、
同じく過激な部分を持つキヨシローさんはどうでしょうか。

何はともあれ、何曲か聴いていただきたい。そして歌詞も読んで欲しい。

Music From POWER HOUSE 忌野清志郎

この中の、先ずは「善良な市民」という曲の歌詞にリンクします。

善良な市民

どーですか! 最高でしょう!!! 個人的には「国際貢献〜」のくだり。
勇ましいことしか言わない人達って、自分が戦地には決して行かないですよね。
この曲なんて、古びていないどころか、今日的により「響く」曲にされなっている。
そう思いませんか?

続いて「メルト・ダウン」という曲です。

メルト・ダウン

反原発ソングで物議をかもした清志郎さんですから、強烈に皮肉っているなあ
と思っていたのですが、かの福島原発の事故以来、笑い事ではすまない曲になって
しまっていますよね。清志郎さんは今日の状況を見るとどう思うのだろう?

清志郎さんの歌が、今日も過激さを失っていないのには2つ理由があると考えます。
一つは、状況がその頃と変わっていない、むしろ悪化しているということ。
彼が見抜いたおかしな構図が、そのまま何の検討もされずに残ってしまっている。
原発だって、あの事故で変わるかと思ったら、なし崩しに推進に向かっていますしね。

もう一つの理由は、言いたくはないけども「売れなかった」ことです。
私が清志郎さんを追っていたのはそのキャリアの後期で、いわゆる不遇の
(でも作品的には大充実期)時代です。大御所と言われる人の中でも
彼一人が売れなかった。(売れたのって教授とやったのと、その後のRC?)
ですから彼の後期の活動で世の注目を浴びたのは「君が代」騒動くらいでしょう。
(「君が代」騒動とは、君が代が正式に国歌に制定されたのを記念して
 ロックでカバーしたのですが。それをポリスターが出すのをしぶって
 インディーズで発売せざるを得なかった、という事件。ニュースになった)
いくら過激なことを歌っても、ビン・ラディンのモノマネ(!!)をしても
ほとんど見向きもされなかったわけです。

それは、逆に言うと「キヨシローの歌が現実に作用していない」ということでも
あるわけです。だから、そのおかしな構図が保存されたままになる。
ジョン・レノンのメッセージが漂白されたのは、それが力を持って現実に
作用したことの表れでもある、と考えることができます。そうすると、
キヨシローの歌が古びていないのは、現実に作用していないことの表れでもある。

それは、清志郎さんの歌が悪かった、と思いたくはないんです。
(だって今聴いてもサイコーなんだもん)
ただ、どうやって届かせたらいいのか、ということは考えたいですけどね。

最後に、彼の後期の代表曲となった「JUMP」を紹介します。
これは、キヨシローの王道の路線で、非常にポップな曲です。
ですが、その奥にきっちり政治的なメッセージが込められています。

GOD 忌野清志郎

JUMP

次回は何にしようかな。ヒップホップと政治の問題を取り上げます。
posted by なんくい at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月03日

音楽と政治4 山崎まさよし新作に見る「メッセージ」とは?

音楽と政治シリーズの第4回。今回はPEなどの海外のHip Hopについて
書こうと思っていたのですが、またもやこういうニュースが飛び込んできました。

山崎まさよし、憲法9条を歌う

歌詞もリンクしておきます。#9 story

すみません。9/18リリースだそうですが、完全にスルーしていました私。
しかしノンポリに見える山崎まさよしさんまでこういう曲を出すようになるとは
状況もなかなかに切羽詰っていると言えるのでしょうか。

これに対する反応は予想通りで、それへの私の反論はサザンの記事でも書きましたが
そこで書いたこととまるっきり同じことが当てはまるので、いやはやネトウヨ
と言われる方の紋切り型の反応はもはやコントですね。

一応真面目に9条の問題について私の考えを書いておきます。
憲法の改正というのは国民的に議論を尽くして決定すべき事項で、賛成の人も
反対の人もお互いの立場を考えながら落としどころを考えるべきでしょう。

ですが、この問題に対するアプローチは、双方とも冷静さを欠いていて、お互いを
罵倒することに走りがちで、それが議論が前に進まない原因だと考えています。
繰り返しますが、相手を言い負かせばOKという事案ではないのですよ。

例えば憲法を変えたい人は、代わりの歯止めをどのようにするのか、について
護憲派の人を納得させる案を提示すべきだと思います。
護憲派の人は、今日の世界情勢を鑑みてそれでも平和憲法が有効であることを
説得力のある材料をもって示すべきでしょうね。

私の個人的な意見としては、出来ることなら9条は変えたくない。ただし
変える必要がある、という議論に一定の説得力があるとも考えています。
ですから「絶対変えない」でなく「どのように変えるのか」が問題だと
その中身を問題にしたいです。(不磨の大典じゃないと思いますし)

また、その中身以上に変えるプロセスというのが大事になってくるのではないか
と思います。「本当は変えたくないけど、現在の情勢を鑑みると仕方ない」という
身振りが(国内的にも国際的にも)必要だろうと。ところが改憲したい人たちは
その言動を見るにどうにも好戦的すぎて、そのようなてらいが見られない。これでは
憲法9条というくびきを外したらどうなるのか、不安が消えません。
(好戦的で何が悪い、という人には「勝手にやってください」とだけ言います。ただし
 真っ先にご自分が戦地に行って戦ってくださいね。)

山崎さんの曲の話に戻りましょう。「SPA」も買いましたが、件の歌に関する部分は
先ほどのネットの記事ですべてと言っていいでしょう。(全体の文脈の中で読んだ方が
もちろんいいっちゃあいいですけども)私は反戦の歌だからといって(中身を聴かずに)
毛嫌いするのもどうかと思いますが、反戦の歌だからといって無批判に賞賛するのも
おかしいと思います。あくまでも「楽曲」としての説得力で評価すべき。

というわけで、遅ればせながらiTunesで購入し聴いてみました。そこで思ったのは
「この曲の核を憲法9条だと考えると見誤るなあ」ということ。確かにそれは
これまでになく直接的に触れてはいますが、言わば「ネタ」としてこの曲の核に
合ったから使っただけで(使いたかった、という本人の強い衝動はあるでしょうが)
この曲の核は、言葉にすると陳腐になりますが、ある種の不条理感だと思います。

曲を聴いていただければ分かりますが、ちょっと得体の知れない曲なんですよ。
不思議なテイストを持った。アルバムには他にいい曲はたくさんあります。ただ
こういう得体の知れない宙ぶらりん感はこの人の得意技の一つで(表現者としての
核、なのかも知れない)そこに今回明確なテーマが与えられたに過ぎないのだと。

ここで便宜上、憲法改正反対というメッセージを「表層のメッセージ」不条理感を
「深層のメッセージ」としましょう。(それがこの曲の持つ深みを単純化している
ことは承知の上で)この場合、表層のメッセージに引かれてこの曲を味わっている間に
深層のメッセージがじわじわ沁みてくる、ということもあるでしょうし、反対に表層の
メッセージがどのように伝わるかに深層のメッセージが作用することもあるでしょう。

これが例えばラブソングでしたら前者の消費のされ方も多いでしょうが、
政治ソングになると表面的なメッセージばかりが取りざたされがちですね。
(それがいきものがかりの水野氏が政治ソングを毛嫌いする理由かも知れませんが)
ラブソングでしたら恋愛に対する考え方の違いに関係なしに消費されるのに
政治がテーマになると意見の違いが決定的な断絶となる。

それだから政治と音楽は合わないと考えるのでなく、その状況を変えうるには?
変える方法論はないのか? ということを考えていきたいと思いました。

山崎さんのアルバムに関しては、この人のもつ表現者としての複雑性は健在。
インタビューを読んで「ヘンにストレートになっているといやだなあ」とちょっとだけ
不安になりましたが、それは杞憂でした。いや、いつになくストレートな物言いも
増えてはいますが、いい意味で得体の知れなさは健在で安心しました。
「#9 Story」という曲も簡単にメッセージとして飲み込めない感じがいいと思います。
(この曲のタイトルってサリンジャーと引っ掛けているのでしょうか?)

https://itunes.apple.com/jp/album/flowers-furawazu/id699476391続きを読む
posted by なんくい at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月19日

音楽と政治5 アフリカのグリオとアメリカのヒップホップ

音楽と政治について考える短期連載。(そもそも歌詞について考えているのですが)
今回は海外の事例を概観してみましょう。

私は欧米以外の音楽に触れることも好きでして、いわゆる「ワールド・ミュージック」
にも興味があります。(自分が耳慣れない音楽への憧れ、ですかね)

その中でも私はアフリカの音楽が非常に好きでして、今現在のアフリカも
相当面白いはずなんですが、情報があまりに少ないのが不満です。

アフリカと一口で言っても非常に多様なのですが、私が面白いと感じているのは
西アフリカの音楽が多いんです。ユッスー・ンドゥールとか、最近ではマイア・
アンドラーデとか。他にサリー・ニョロという人も面白い。

その西アフリカでは伝統的に「グリオ」という歌唄いの職業があったそうなんです。
それは世襲制で、文字のない社会(がほとんど)であったアフリカで、歴史とか
人生訓とかを伝えるという機能を持っていたそうなんです。

いや、もっと血なまぐさく政治の道具ともされていたそうなんですね。王を讃える
歌とか、敵を呪う歌まで歌ったそうです。グリオの歌の力は社会で認められていた
ため、王様もそう邪険に扱えない存在だったとか。一方で差別される存在でもあった
とも言われていて、その辺は社会によってその機能もさまざまだったそうです。

話は現在に行きますと、現代のアフリカのミュージシャンでもグリオの家系を持つ
人がけっこういまして(前述のユッスーなんかもそう)、彼らは「現代のグリオ」
のような機能を果たしていたりするそうです。(ユッスーは大臣になっちゃいましたが)

というわけでアフリカのミュージシャンの歌詞を見ると、けっこう政治が扱われたり
説教くさかったりするわけなんですよ。それは、彼らの伝統に即した「自然な形」
だったりするんですね。それを「説教くさい」と感じるのは外野の感覚でして。

一方で、アフリカをめぐる状況が非常に過酷だということもあるのだと思います。
ヨーロッパから独立したはいいものの、経済的には苦境だったり、部族間の対立が
深刻であったり、貧困や犯罪など、問題は山積なのだそうです。

という背景か、現代のアフリカのミュージシャンは汎アフリカというか、アフリカ全体の
アイデンティティを訴えるメッセージが多いように思えます。博愛主義的にならざるを
得ない状況が、そこにはあるのでしょう。

さて、アフリカの次はアメリカ。アメリカで生まれたヒップホップと政治について
概観します。彼らは黒人のアイデンティティを強く打ち出します。そして黒人を差別する
白人(信じられないでしょうが、未だに根強いのだそう)をしばしば強く告発します。

その歌詞(ライムと言うべき?)は過激に走りがちで、むしろ白人を逆差別してやる
といった調子のもの、いや白人を殺っちまえくらいのことさえ言ってしまうわけです。
ただそれは、そのくらい言わないと届かない、というシビアな状況あってこそ、
なのだそうですが。(最近はまたかなり変わってきているようですが)

一方で、日本ではヒップホップというと政治的な面ばかり強調される、という批判も
あるようです。日本で人気になったパブリック・エナミーなどの影響なのでしょうが、
そういった声も、後の考察の為に頭に入れておきたいと思います。

アフリカのグリオとアメリカのヒップホップ。状況も音楽性も異なる2つをこうして
並べてみようと思ったのは、そのパブリック・エナミーのチャックDの言葉がもとです。
「PE(パブリック・エナミーの略)は黒人のCNNだ」という。アフリカのグリオに
通じるものがあると思いませんか?

それは「メディアとしての歌」という機能で共通しているからです。彼らは歌という手段で
広く情報を伝えようとしている。そういう「メディアとしての歌」という側面も確かに
あるということです。確かにただニュースとかで訴えられるよりも、魅力的な音楽に
惹かれて「この歌は何を訴えているのだろう」とメッセージに耳を傾けようとする、
という面もあるのではないでしょうか。

じゃあ、それが日本ではどうなのか。ということで、次回以降にいくつかの事例を
掘り下げてみたいと考えています。次回はそんなに日を空けないようにします。
posted by なんくい at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歌詞の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする