2017年07月11日

アイドルに「哲学」って?

哲学というものは、言語の明瞭さを使って世界を暗くする営為だと私は考えています。
ここでポイントなのは、世界を「暗くする」ということ。「明るく」ではないところに
重要な意味があるのです。

よく哲学の本を読んで「よく分からない」と文句を言う人がいるんですが、実はその人に
哲学が「正しく」作用しているんですよ。ただ、その状態が意味あることなんだという
ことが教育できていないだけで。混迷の度を深めるこの社会で、あるいはシンギュラリティーが
現実化しそうな現在、私達の身の回りの「分からなさ」に向き合う哲学は、今後重要性を
増すことでしょう。

いきなり哲学についての個人的な考察から始めたのは、何を隠そう、本稿の主人公である
「フィロソフィーのダンス」についての考察につなげたいからです。もう彼女達のことは
これを読んでいる皆さんの中には、私なんかよりも詳しい方も沢山いらっしゃるでしょう。
念のため、知らない方のために音を貼っておきます。





いわゆる楽曲派()と言われるアイドルの現状における代表格といっても過言でないでしょう。
ファンクを中心とした80s洋楽テイストは、Especiaの不在を埋める存在となっている、という
見立ても出来るのかも知れません。(実際、ペシストさんが流れている部分もあるみたい)

ただ、Especiaが実は一筋縄ではいかないグループだったのと同様、フィロのス(フィロソフィー
のダンスをこう略する)も実は一筋縄ではいかないグループなんですよ。実際は安定感ある
「安心商品」的な需要のされ方をしていると思うんだけど(まあここまで、見事に外してない
からね)というのを、ここから書こうかと思います。

先ず「Funky But Chic」という秀逸なグループ・コンセプト。これは音楽性の説明でありながら
グループ自体のコンセプトも説明しているという優れものですね。「Chic」というとあの
グループへのオマージュも感じますし。熱情とクールネスという対比の意味も込めている。

ただ、ここでのポイントは「But」だと思うんです。「Funky And Chic」でなく「Funky But
Chic」! そこには対立する要素がただ共存しているのでなく、ある種の緊張感をもって
併存しているという含意があると考えられます。

その構造はバンド名にもあるように感じます。というのも「フィロソフィーとダンス」でなく、
「フィロソフィーダンス」。ちなみに英語では「Dance for philosophy」
直訳すると「フィロソフィーのためのダンス」あるいは「フィロソフィーに向けたダンス」。
ここにも、なかなか一筋縄ではいかない構造が、ほの見える。(あ、ちなみに「フィロソフィー」
とは「哲学」のことです)

そもそも哲学というものも、伝統的にただの座学というより実践を重んじる傾向があるよう
なんですよ。各人が生活する現場を重視する。それでいて、単なる実学ではなく、その生活の場
から切り離した考察(その典型が形而上学)も同じく大事にする。言ってみれば、その両者が
円環構造のように行き来する。そういうあり方は、彼女達の現状を上手く表しているように
思えるのです。

今は「アイドル冬の時代」に差し掛かると言われ、またアイドルとアーチストの境目という
のもよく分からなくなってきている時代です。結局東京女子流もTIFに出るしね。そういう
混迷の度を深めるアイドル・シーンに、加茂啓太郎というブランド・ネームと、ライブ・
シーンから2名スカウトしてきたという出自(道理で歌上手いわけだわ)から、いわゆる
アーチスト寄りな扱いを受けるグループではあるでしょう。

ところが、ファンの方ならご存じの通り、彼女達は意外とアイドル的なスペックも高く、
グラビア企画でグランプリを取っていたりなんて実績もあるんです。アイドルの多様性を
体現したかのような佇まいにしろ「こういうアイドルだよね」というイメージを引き受け
つつも、軽やかに裏切るあり方が、非常にクールだし現代的だと思うんですよ。

と言いつつも、フィロのスのあり方自体、完全に新しいというわけでもなく、微妙にNegicco
的だったり、Especia的でもあったりする部分もある。まあいたずらに新しくしようとしても
今は3776(ニューアルバム、やばいっす)とかと対抗していかないといけないですから。そこは
目指さなくてもいいんですけど。

フィロのスを見ていて突出していると感じるのは、足に地がついている感じ。非常に真っ当
なんですよね。別にアイドルかアイドルでないかなんてどーでも良いと思っているような。
実際に加茂さんが「アイドルである方が出ていける場が広がるから」と非常に現実的なことを
言っていましたし。その真っ当さが、現在のアイドルシーンへの批評になりえるくらい、
事態は混迷しているとも捉えられるのですが。しかもその混迷とはアイドルシーンだけでなく
音楽業界全体と考えるべきでして。「ボーカル&ダンス・ユニット」と言っても居場所がない
わけですからねえ。

その意味では、彼女達がここからどう活躍していくかというのは、音楽業界の未来がどうなるか
を占う試金石のような意味合いもあるのかなあと(大げさかも知れないけど)思って見ています。
彼女達、たくさん曲は発表しているので、どんどん音源化してほしいですけどねえ。(その辺の
あり方も結構不思議なんですけどね。未音源化の楽曲が多すぎる・・・)
posted by なんくい at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月30日

サブスク時代の洋楽楽理解説 #16Toto「Africa」

今月は記事の更新が少なめでしたね。宿題を溜めがちな私、懸案のフィロのスは
間もなく出来上がりますので、しばしお待ちを。

月末恒例の洋楽楽理解説。今月はTotoです。スタジオ・ミュージシャンの集まりで
全盛期のMichael Jacksonも支えたという凄腕ぞろいでして、80年代の音像を象徴
する人達であることは間違いないです。

私自身は彼らに対してはアンビバレンツな思いを抱いておりまして。ガキの頃はあまり
深く考えずに好きだたtのですが、90年代のオルタナ革命をもろ被りでして、そうなると
彼らは真っ先に落とすべき敵なんですよ。最近はそういうのはどーでも良くなったので
また聴くようになりましたが。ということで、非常に悪意がこもったような書き方を
してしまうかも知れません。その時には、オルタナ野郎のシッポが出てると笑ってやって
下さい。(ファンの方は気分を害するかも知れないので、あらかじめ謝っておきます)

この連載の最初の方で、この連載の裏テーマとしてニューウェイヴの行方を探るという
命題があると書きました。その意味ではTotoというバンドはその極北と言ってもいいかも
知れません。実際に曲を聴いて頂くと、派手なサウンドとは裏腹に楽曲派意外と地味と
いうか、あさっての方向に向かっているような楽曲が多く、何も知らずに聞いた人には
「シンセのデモ演奏みたい」と感じる人もいるかも知れませんね。「自分たちはこういう
ことも出来るんですよ」というプレゼンとしての楽曲。

ところが、もともと腕利きのスタジオ・ミュージシャンだった人たちが組んだバンドですから
そんなデモを作らなくても引く手あまたなわけですよ。そんなミュージシャンがわざわざ組んだ
バンドですから、彼らには明確に「やりたいこと」があったわけですよ。むしろ、各自スタジオ
で最前線の仕事をして得たものを持って帰る場としてのToto。それが、先ほどから申し上げて
いる「ニューウェイヴ」という問題意識なのでは、というのが今回の趣旨です。

「ニューウェイヴ」というか80sのミュージシャンとしてはこれまでR.E.M.やU2、そして
前回はDuran Duranを取り上げました。また、その線上で言えばNirvanaも同じ問題線上に
位置付けてもいいと考えます。この辺りのドラマツルギーとしては、R.E.M.のところで
レイモンド・カーヴァー辺りを引き合いに出してミニマリズムという解説の仕方をしました。
ただTotoはコード進行が巧みですし、非常にカラフルな楽曲ではあるんですよ。しかし、
既存のドラマツルギーに回収されないぞという意味ではニューウェイヴ的。それが、仏作って
魂込めずのように聞こえる、奇妙な感じを抱かせる楽曲になる原因だと考えます。
(本人たちはそこまで意識していなかったりして)

そんなTotoの面白さは楽曲を解析してみると一目瞭然です。ということで分析に入って
いきますが、好きな曲は他にも色々あるんですが、今回取り上げるのは代表曲の「Africa」。
やはりみんなに知られている曲をやる方が、彼らについてはいいだろうという判断です。



VEVOに音がありますね。聴いて頂くと非常にエモーショナルでありながら、奇妙な余韻を
残す楽曲だということがお分かりかと思います。それでいてなかなかテクニカルな曲でも
ある。その辺はもちろん解き明かしていきますが、こちらが問題視したいのはあくまでも
ドラマツルギーの方です。そこに力点を置いた語りになります。

VEVOの音源の方はいきなりシンセのリフから始まりますが、アルバムではその前に4小節
ドラムとパーカッションのみのパートがあります。それに続いてのシンセリフのパートは
2小節の繰り返しなんです。それもシンコペーションが利いたフレーズで複雑なんですが
このフレーズ、大きくは3拍と5拍という分け方が出来ると思います。1拍目の頭から
始まった温かみのあるシンセのリフは4拍目の頭で最後の音の伸ばしになる。そしてその
裏拍から16分音符の分散和音でキラキラしたシンセの音が入ってくる。その繰り返し。

そして、ここのコードはAmaj7→G#min7→C#min7という進行。G#min7は短く挟まれ、
C#min7が5拍続くというつくり。ということでこのC#min7がメインに聞こえるように
感じるでしょう。これをC#minorと解釈すると、ここは六→五m→一と、肝心のドミナントが
マイナーになってしまっている。なのでここは平行長調のEmajorと考えて、四→三→六と
マイナー展開していると考えた方が自然でしょう。

ところが、このリフが4小節繰り返された後、楽曲はBmajorになるんですね。ということは、
C#min7は二の和音ってこと? でもBmajorにAmaj7という和音はないので、ここは転調した
と考える方が自然でしょう。イントロからAメロ入りでいきなり転調する。なかなか斬新な
展開ですね。

そしてそのAメロですが、一応こういうコード進行になっております。
 |B・D#min7|G#min7・B/F#|A/E・E/F#|G#min7|Amaj7・G#min7・C#min7|
なんと、ここのパート2拍長いんですよ! ここは4小節目を4分の6と解釈することも
可能なんですが、ここではその4小節目(G#min7のところ)を4分の2とし、その後に
1小節加わっていると解釈することにします。というのも、その5小節目が例のイントロの
1小節分なんですよ。これが挿入されていることの意味は後で考察しますが、イントロの
1小節が挿入されているという意味で、4小節目が2拍短くなっていると解釈します。

さてここのコード進行ですが、順に一→三→六とマイナー展開し、そこから転回形ですが
七♭に行き(その前の一の第2転回形、B/F#のことです、は繋ぎのコード)さらに五から
六に行く。ここでのキモはやはり七♭でしょうね。いわゆる同主調借用で五に準ずる役割を
するわけですが、これが挟まれていることが後々意味を持つことになります。そして、
このAメロパートの締めくくりは五から六へと疑終止するかと思うとまた七♭に行くという
いわゆるダメ押しパターン。その七♭から例のイントロ1小節の挿入に移るのですが、
ここの部分は、和音のドラマツルギー的に言うと、そのまま七♭で動かずに一に行っている
のと同じような効果になっている。(C#min7がAmaj7の代理コードになっていますし)
つまり、転調しているように感じたイントロのフレーズが、Bmajor的な磁場に自然に
組み込まれているわけです。ここのところも実に巧みですね。

ただここまではわりと自然なBmajorの温かみのあるコード進行で、穏やかに曲は進行
しています。メロディも、頭のフレーズ以外は下にもぐっている感じで、穏やかな
印象を与えるのに貢献しています。ところが、この5小節(4小節半?)を3回繰り返した
後、4回目は次のように変わるのです。
 |B・D#min7|G#min7|Amaj7・G#min7・C#min7|C#min7|
メロディもここで突然エモーショナルになり、ここできちんと4小節になる(4分の2なんて
リズムトリックもない)。ここでのキモは2小節目だと思うんですよ。3回目までは後半に
繋ぎのB/F#というコードがあり、そこから転回形のA(七♭)に行っていたのですが、
そこを経ずに転回形でないAに。それはイントロの2小節に直接つなげるための措置ですが、
以前に転回形のAに行ってた残像があるので、非常に自然にここにつながっているように
聞こえるわけなんですね。むしろ、3回目までここで繋ぎのコードから転回形に行っていた
のが、意図的に違えていたのでしょう。イントロのAmaj7と似てるけど違う和音にして、
ここでの効果を出そうという。そのせいで、ここでコードが省略されているって解析しないと
分からないですよね。

そして、そのイントロ部分の挿入も、3回目までは1小節だったのがここでは2小節。ここも
C#min7のコードを強調しようという狙いがあるからです。Bmajorの磁場に組み込むための
1小節と、次につなげる(ここで引っ張ることがサビへのジャンプ台の役割も果たしている
わけです)ための2小節。おまけに、穏やかに安定して聞こえているところが小節の構成が
崩れていて、そこを破調したように聞こえるところが小節構成的には折り目正しいという逆説!
非常に、一筋縄にいかないことがお分かり頂けたかと思います。

そしてサビ(コーラス)ですが、ここのコードはこの2小節の繰り返し。
 |F#m・D|A・E|
実際は2回目以降のコーラスでサステインっぽい和音が入っていたりするのですが、一応
バックのコードはこういうふうにセブンスなど入っていないようです。

ここも転調していると取っていいのですが、F#minorに転調しているのか、その平行長調の
Amajorに転調してるのか判然としないです。というのも、F#minorだと一→六→三→七で
Amajorだと六→四→一→五。どちらでもイケるんですね。いずれにせよマイナー展開である
ことは間違いないです。

ここで、2小節目のコードがもし逆ならばいわゆる小室進行で、非常に安定感のあるコード
なんですよ。ところが逆になっていることで不安定感というか次に向かっているような感じを
与えるように出来ています。実際、ここはドラマツルギーとしてエモーショナルになり、
どこかへ向かっているような印象を強烈に与えます。ところが、どこへも向かわない。

その理由を述べる前に、メロディの与える印象についても言及しておきます。ここのメロディ、
エモーショナルに聞こえるのですが実際はほぼ同じ高さのフレーズで押している。むしろ
途中で加わるカウンターメロディの方がエモい動きをする。その辺の逆説も、ここから
述べる話と共通しているように感じます。

そしてサビの2小節の繰り返しは3回続き、ここでも4回目に何かが起こるわけです。
4回目のコード進行はこうなっています。
 |F#m・D|A・C#m|E・F#m・E/G#|
ここで3小節になっています。が印象としては最後のサビが2拍短くなってそこにまた
1小節半挿入されているような感じ。それはここでコードが変わることもありますが、
ここでギターギンギンにが入ることもあるでしょうね。

ここでやっていることは一種の解決なんですが、それも要は一旦元のF#mに戻ると
いうことをやり、そこから繋ぎのコードを経てイントロのAmaj7へ向かっているわけです。

つまり、何かに向かっているようなエモーショナルなサビも、結局同じところに落ち着き、
さらに最初の地点へ戻ってくるわけです。解決感もなく。つまり、ここのエモさも断片的
なんですよね。サビがエモーショナルだが断片的というのはTotoによく見られる特徴なの
ですが、私はこれは意図的なのだと考えます。その、時代的な意味は最後に考察します。

楽曲は、基本的にはこの繰り返しです。2コーラス目はイントロの繰り返しが2回になり、
Aメロの繰り返しも2回と1回減ります。キーボードソロのところではさらに1回カット
されていますけども。そういう細かな違いはありますが、忠実にこの順番に3回繰り返され、
最後もイントロの2小節をリピート&フェイドして終わっていきます。

Totoの「どこにも向かわないエモーショナルなサビ」というのは1980年代ならではの
時代の空気とリンクしてると私は考えています。豊かな閉塞感というんですか。そんな
楽曲の構造はミニマリズムと称して考察した楽曲群と共通していると思いますが、そこへ
断片的にではあれ、楽曲のつくりとしてエモいテイストを入れているところがTotoの
ユニークなところだと考えます。Nirvanaなんかはどこにもいかない閉塞感の中で
咆哮している感じで、そこは対照的ですね。

次回は7月。ロックの季節ですね(と勝手に規定している)ということで今年は7〜8月に
ロックに行こうと思っております。7月はCheap Trickの「Surrender」をやります。メチャ
有名な曲なので聴いたことあるでしょうが、知らない人は聴いておいてくださいね。
ラベル:楽理解説 toto
posted by なんくい at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月28日

祝30周年!エレカシの極私的30曲(26)悪魔メフィスト

あと5曲になったエレファントカシマシ。今回は名盤「悪魔のささやき〜
そして、心に火を灯す旅〜」を語ります。

このアルバムはある種のコンセプトアルバム的な趣を持つアルバムですね。
ハードなエレカシとポップなエレカシを両面として、その対比を見せるという
試みが成功しているように感じます。アルバム前半にハードな楽曲を固め(でも
そこに「明日への記憶」というバラードを配している)中盤からはポップな楽曲が
続き(その始まり方も「彼女は買い物の帰り道」でさりげなく景色を変える)と
いう二部構成になっていて、聴きやすいというのが先ず一点。

2点目としては楽曲が粒ぞろいだということ。ハードなパートでも「脱コミュニケーション」
のような意欲的な楽曲が聴けたりしますし、中盤からのポップ・パートでは、前回紹介した
「いつか見た夢を」をはじめとする強度を持つ楽曲(すべてにおいてグレード・アップして
いるんだよなあ)が揃い「ココロに花を」辺りが好きな方も大満足間違いなし。

ところが、第3にあげるポイントは、このアルバムの終わり方なんですよね。後半のポップ・
パートが「幸せよこの指にとまれ」で頂点に達した後、不穏なインタールードを挟んで、
今回紹介する「悪魔メフィスト」につながっていくんですよ。ここの当たり、今聴いても
ゾクゾクしますね。

この曲も動画が公開されてます。最近のエレカシ、太っ腹ですね!

タメの利いたビートに乗って、ヘビーなギターリフと宮本さんの咆哮が飛び交う。
エレカシのファンにはお馴染みの、間違いないナンバーですね。サビでちょっと
リリカルになるのも定番的でカッコイイ。

昔からのファンは、ポップなエレカシを見ていても、その裏にちゃぶ台をひっくり返して
しまいそうな危ない宮本さんを見ている。そのスリルも込みでポップな楽曲を楽しんでいる
部分があります。sれを、アルバムとして可視化してくれているという部分もあるのですが
(だからファンは「来た来た来た」とウレシくなる)この曲の凄みはそれだけでないと
私は考えます。というのも、誰の心の中にも「悪魔メフィスト」はいるのではないか、と
いうことをこの曲は突き付けているように感じるからです。

平穏な毎日を送っているように見える隣の誰かの奥底にも、いや今普通の生活を送っている
私達の裏側にも悪魔メフィストがいて、ふとしたきっかけでそれが表面に飛び出してくる。
それが、ニュースとかで見る向こう側に行っちゃった人なんでしょうが、そんな人たちは
決して彼岸にいる見世物なんかでなく、私達と地続きである。そんな怖さを感じさせてくれる。
ここでのエレカシの表現はそういった普遍性を感じさせてくれます。
posted by なんくい at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする