2017年05月05日

オトナになったさくらしめじ

今日はさくらしめじについて書きます。

一年ほど前に彼らのことを取り上げたのは、少しキワモノっぽい扱いでした。
こんなタイトルの記事でしたから。
中学生男子に萌えるなんて!

この頃の彼らは存在のカワイさが表面に出ていて、楽曲もそんな彼らの魅力をプレゼン
する曲、という位置づけったわけです。まあ平たく言えば、そんなイイ曲ではなかった
よね、というわけ。

そんな彼らがいよいよ中学生を卒業したということで、そんな彼らの現状を紹介します。
先ずは今回発売されるミニアルバムに先駆けて公開された新曲(ライブでは披露されてた
そうですが)を聴いてみましょう。



ちょっと楽曲が良くなっていません? 彼らが声変わりしてオトナな声になってきてる
だけでなく、思春期の痛みに寄り添った歌詞に、陰りがいい具合に含まれた楽曲。
こんなイイ曲を歌う子だったんだ?と新鮮です。やっぱイイ曲歌わせてあげないとね。

そして彼ら自身の卒業にも合わせた卒業ソング。



これは彼らが初めてドロップする名曲と呼んで差し支えないでしょう。Bメロでの
雅功くんの低音にドキっとしつつ(でも非常に堂々とした歌いっぷり)控えめに
センチメンタルなメロディに切なくなる。この温度感が今なんでしょうね。

さて、かように「期間限定的な萌え」は終了しつつある彼らですが、それと共に
新たな魅力が立ち上がってきているのはサスガですね。その「新たな魅力」について
少し語っておきたいなあと思います。

さくらしめじは草食系の代名詞と言われています。ただ、草食云々というのも外から
彼らを見たパブリック・イメージに過ぎず、いや草食と見られる人にだって熱い思いや
青春の悩み、痛みといった感情はあるでしょうし、それを彼らなりに表現していけばいい。
そういう意味では、さくらしめじの二人は同じように草食と見られる人種の人達にとって
ある種のロール・モデル的な役割を果たすのだろうと思われます。

ただ、そういった表現にたどり着くのに、彼らがオトナになるというだけでなく、ここまで
係ったということの重みを、もう少し皆さんに噛みしめて頂きたいなあと私は思うのですよ。
というのも、草食系=フォーキーというパブリック・イメージがあるがゆえに、彼rは簡単に
その類型に乗ることが出来なかったわけです。

彼らの楽曲に触れていくと、従来的なフォークの類型を注意深く避けているような印象を
抱かれることでしょう。彼らは単純にゆずのモノマネをするわけにはいかなかったのです。
面白いことに、90年代以降の路上フォークブームでブレイクした人たちって、実は草食系
とは違う人達だったんですね。ゆずは好青年風ですし、19はヤンキー、コブクロは芸人的
という佇まいでした。彼らは人種とやっている音楽とのギャップという面で(も)新味を
出すことが出来た。なので、彼らはただフォークをやればいいのではなくて、そこに
彼らなりのオリジナリティーを出すことが必要だった。

彼らが「声変わりしてない男の子の魅力」というキャッチーさを纏ってデビューできたのは
そういう意味では幸運だった、のかも知れません。彼らの音楽性がYUI以降の平熱的なギター
女子meetsアニメ・アイドルソング路線(mixとか打ちやすい楽曲構造)といった趣になったのは
そういう彼らの魅力をプレゼンしようという意図があったのでしょう。それが、大人になる
苦みを入れていこうという中で、豊饒なJポップの歴史遺産にリーチしている、というのが
彼らの音楽性の現状だと分析することが出来ます。

彼らがこれから、高校生〜大学生(いや、学生にならずにプロになるのかな?)と年を経ていく
につれて、新たな草食系男子のパブリック・イメージを打ち立てることができるか。当ブログでも
これからの彼らに注視していきたいと思います。
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2017年05月04日

祝30周年!エレカシの極私的30曲(12)赤い薔薇

エレカシの極私的30曲。今日はあえて外した「今宵の月のように」の裏バージョン
という趣を持つ回です。というのも「今宵の月のように」については、以前
たっぷりお送りしたことがあり、ここに加えることはそんなにないので。

その代わり、今回はそのシングルのカップリングに入っていた「赤い薔薇」を
たっぷり語ろうと思います。この曲はアルバム「明日に向かって走れ〜月夜の歌〜」
に収められています。ちょうど前回お送りした「遠い浜辺」の次の曲になっている
んですよ。ですので、前回の続きとしても楽しむことが出来ます。

この「赤い薔薇」は前回お送りした「遠い浜辺」の路線を踏襲したといっていい
タイプの曲です。こういった「裏通り」と言える楽曲の充実が、エレカシのブレイクを
影で支えたということを、私はもっと強調したいなあと思うのです。「今宵の月〜」
とか「風に吹かれて」とかばかりフューチャーされるもんな。いやこれらも名曲
なんだけども。あまりに不憫なんでね。

「赤い薔薇」は「遠い浜辺」よりもアップテンポではあるものの、同じようにハードで
かつ和の情緒を感じさせる路線。いやこの曲に関しては、ちょっとエキゾチックな
風味もあるかも。コードとかメロディの使い方が少しイスラム歌謡的な雰囲気が
あるんだよね。

そういう少し不思議な雰囲気で、歌詞も少し文学入った調子なのですが、それが
サビでははっきりした輪郭を持つ言葉で、非常に前向きなメッセージを放つのです。
「僕はひた走る/どんな悲しい思いでも/全て後ろにして」というライン。本当に、
本当に大々大好きでした。ただ前向きなのでなく、非常に重苦しいものが裏打ち
されているのが、ツボなんですよ。

そういう個人的な思いは別にして、この「赤い薔薇」は「今宵の月のように」で
展開されている歌世界を裏から支えるような趣を持った曲だと言うこともできると
私は考えます。先ほど引用したラインは「今宵の月〜」の「もう二度と戻らない日々を/
俺たちは走り続ける」に通じると誰もが感じるでしょう。その意味でもこの2曲は
ベストなカップリングだったのではないでしょうか。

さてシングル「今宵の月のように」がロングヒットを続ける中、いよいよアルバムが
発売されます。そのアルバムからはあと2曲、どうしても取り上げたい曲があります。
次回と次々回にそれを書きます。
posted by なんくい at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

わいせつと表現規制(5)性犯罪との関係

表現の自由の連載、久々の記事です。(といっても半年ぶりくらいか)

本題に行く前に、ちょっとスゴイ考え方の人がいたので、スタディ・ケースとして
取り上げておきましょう。いやはや、スゴイ人がいますねww

民進党員、思想信条の自由を無視しオタクの弾圧を主張

ツッコミどころ満載ですが、ここでは一点だけ触れておきます。この方は倫理と法との
区別をきちんとされていないのではないでしょうか。「幼児を虐待することを思っては
いけない」というのと「幼児を虐待することを思うことを法で規制する」のとはレベルが
異なります。法で規制となると、どの程度の罰則とかそういう問題が発生しますし、
その規制や罰による有効性も問題になってきます。その有効性(とそのデメリット)を
考えずに、ただ感情的に規制せよと言っているだけに聞こえます。(まあ規制するのは
あくまでロリコン表現だけども。心の中を規制するなんて現実問題できないもんね)
そういうことだからこそ「内心だけであっても、もしも私の幼い子供に欲情する者が
いたら、私は法を犯してでもその男を殺すでしょう。」という現実離れしたことを
のたまうのでしょう。そんなこと言ってたら、この人大量虐殺しないといけなくなるよ。

あまり極論みたいなものに付き合うのは、真面目に議論する上では却って不都合なのかも
知れません。しかし、今回展開しようとする議論こそが、まさしくその極論だったり
します。これからの話は、かなりきっついです。

前回は性表現が人権侵害かという角度から議論をしました。最近も色々されていますよね
AV女優さんの人権問題。ただ、それに対して「もしAIやCGに置き換わったら、性表現
の問題は消滅するのか」という疑問を呈して前回は終わっていたのです。

そして今回掘ってみようと思うのは「性表現は性犯罪を引き起こすのか」という議論。
というのも性表現に反対する人は「性表現が性犯罪を引き起こす」と考えている(人が
大多数)でしょうし、表現規制に反対する人は多くが「性表現はむしろ犯罪を減らす」
と考えている。つまり、性表現と性犯罪の相関性というのはこの表現規制の是非を決める
分水嶺となっていると言える。そこで、この問題を考えてみる価値があると考えるのです。

先ず性犯罪を引き起こすと考える人の論拠は、性表現が性衝動をかき立てるという面を
重視しています。あるいは、その性衝動に行き場を与える。つまり方法を教えちゃうと
いうわけですね。あるいは、そこで描かれる異性の反応が偏っていて、要はカンチガイを
させてしまう、といった類の意見も散見されます。

一方期生反対派の論拠は主に「表現による抑止効果」に依拠しています。簡単に言えば
表現によって衝動が満足するというんですね。この意見は反対に、表現によってガス抜き
していなかったら、余計に犯罪が増える、という形の意見を取ることもあります。

いずれの意見も一見説得力があるので、この議論はそもそも平行線をたどうだろうと
予想されます。実際にデータを基に議論をしていく他はないでしょうね。ただ、現実に
実験をするわけにはいかないので(この辺が社会科学の難しさ)様々な実証データを
対照させて議論するしかない現状です。今現在では、データを精査すると規制反対派に
旗色がよい、といってよいのでしょうが、かといって「はい論破」と言い切れるほど
決定的な結果が示されているほどではないでしょう。

私自身は性表現一般とくくれるほど単純な問題でないだろうと考えます。以前にゲームが
脳に悪影響を与えるなんて警鐘が鳴らされた時(その研究はほぼ否定されているよう
ですが)その問題に対する考察が足りないと感じました。もし実際にTVゲームが
脳に悪影響を与えるのなら、その原因はハードが原因かソフトが原因かという考察が
次の研究に進めることになるだろうと考えられます。

そこで仮にハードが問題であるのなら、TVゲームでないアナログゲームなら、同じ内容
でもOKなのか、という問題になります。あるいはTVゲームの中でも色んなメディアが
あるわけで、それらによる差も考察されるべきでしょう。

そして仮にソフトが問題になるのなら、どういうジャンルなら問題なのか、あるいは扱っている
内容に偏りがある(命が軽視されるとか)という問題を提起していくことになるでしょう。

何故、ゲーム脳の問題を長々と考察したかというと、これと同種の問題が性犯罪と性表現の
問題にもあると考えるからです。つまり、性表現にも色々あり、犯罪への影響というのも本来は
個別であるはずだからです。さらにはその表現を受け取る人によっても異なるでしょうし、
表現を受け取る状況などによっても異なるでしょう。(実際、犯罪表現などは「誰と観るか」
に影響される、というデータもあるそうです)

実際のところ、それらを細かく峻別して性犯罪と性表現との相関性を実証できるのはまだまだ
先の話だろうと考えられます。それでも、予防という観点から(つまりどちらかはっきり
しないんだから、あくまでその可能性があると考えて)性表現を規制すべきだという論もある
でしょう。それについて考えてもいいのですが、それよりもきつい問題提起をしてこの稿を
締めくくります。

これは性表現に限らず、皆さんの大好きな表現について考えてみて下さい。もし将来、それらの
表現が、犯罪を引き起こす可能性があると「科学的に」実証されたとしたら、あなたはどう
しますか? あなたの好きな音楽が、あるいは映画が(他になんでもいいですけども)重大な
犯罪を引き起こす可能性が高いと、そういう科学的研究がなされ、それが追試などでも実証
されてしまったら、あなたはその「好きな表現」を手放すことができますか?

この問題は、表現規制派の人ほど真剣に考えてほしい問題です。というのも、こういう問題を
「自分の痛み」として考えられないのだとしたら、他人の表現を規制するという行為の傲慢さに
思いが至らないことを意味するからです。次回は、そういった問題により切り込んでいく予定で
います。性表現の問題の本質は、もしかすると次回展開する問題なのかも知れないからです。
posted by なんくい at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現の自由と差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする